終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
40歳の地図——『いいとも!』長寿番組への道 2
『いいとも!』でタモリは変わったのか?
『笑っていいとも!』に出演する以前と以後では、タモリの芸風や立ち位置が変わったとは、これまでにもさんざん指摘されてきた。よく言われるのは、ギャグからその持ち味であったはずの毒がなくなったというものだ。じつはこれについては、『いいとも!』開始前夜、1981年前後にタモリがブレイクした頃から言われ始めていた。
作家の小林信彦は1982年刊の著書『日本の喜劇人』のなかで、《NHKの『テレビファソラシド』や大新聞のCMに出た辺りから、タモリは大衆に愛されようとし、急に、あくを失った》と書いた(原文では下線部は傍点)。同時期にはまた、コラムニストの亀和田武が雑誌のコラムで、大衆の「知的スレッカラシと情緒面における冷感症的傾向」が加速度的に進行するなかで、毒舌とも知的とも言われたタモリのギャグはボルテージが急落したと喝破している。なお亀和田のコラムは、1981年12月発売の『ミュージック・マガジン』1982年1月号に発表されたもので、その末尾の《来年の「紅白」の司会者は黒柳徹子とタモリのコンビだ》との予言は、一年のあいだを置いて的中することになる(1983年の『紅白歌合戦』でタモリは総合司会、黒柳は紅組司会を務めた)。
『いいとも!』が始まると、タモリへの失望の声はさらに目立つようになった。イラストレーターの山藤章二が、小説誌『オール讀物』での連載で、タモリのイラストに添えた以下の文章はその典型だろう。
近頃のタモリは何だ!! すっかり全国民的芸能人、茶の間のスーパースターになり下がってしまったではないか!!(中略)間違いのもとは「笑っていいとも!」だ。毎日、昼間、ナマ、出ずっぱり…こんなことしてたら影も毒もうすくなって当然だろう。スタジオには、誰を見てもカワユーイ、何をきいてもギャハハハのアホガキが陣取ってる。目の前にこんなのがいればどうしてもそのレベルに合わせてしまう。昔のタモリはもっと知的にヒネクレていた。世間の大多数(マジョリティ)を敵にしていた。そこがよかったのだ!!
(『オール曲者』)
山藤は同時期の『小説現代』での対談シリーズでも、ことあるごとにタモリを俎上に乗せている。これに対する対談相手の反応もさまざまで、たとえば、放送作家としてタモリを近くで見ていた景山民夫は、こんなふうに分析してみせた。
「笑っていいとも!」が始まって一年半ぐらいは、タモリ自身ももとのタモリの部分にかなりしがみついていたんですけども、怖いもんで、毎日、週に五日間、あのオバさんとミーハーのバカな女の子の前に出ると、つまり自分が接してる人間に合わせてるんですね。(中略)とくに、あれは公開ですからねェ。そちらのレベルに合わせていく芸にどんどんなって……。だから、はっきりいってしまえばつまり流す芸になっちゃったと。
(『「笑い」の解体』)
景山はその少し前、タモリが大橋巨泉のようになってしまわないか危惧していたという。巨泉のように、ほかの出演者に対し上から物を言いながら番組を進めることは、タモリの才能を持ってすれば簡単にできる。その兆しを景山は、タモリが当時若手だった所ジョージと一緒にテレビに出たとき、「所、おまえはねえ」などと呼び捨てする場面などを見て感じたというのだ。それでも『いいとも!』が始まると、タモリは誰にでも呼び捨てせず接するようになる。それを見て景山は《危機は脱したなあっていう気が確実にします》と、『いいとも!』開始から約1年後(1983年11月)、同番組のプロデューサーの横澤彪との対談で語った(『極楽TV』)。
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