同世代の才人たちとの親交
2012年12月5日、十八代目中村勘三郎が亡くなった。1959年4月、4歳になるひと月前に『昔噺桃太郎』という演目で五代目中村勘九郎として初舞台を踏んだ彼は、子供の時分よりラジオやテレビにも多数出演している。ラジオ番組『おとなの幼稚園』では喜劇俳優の三木のり平と共演した。ちなみに同番組を後年、録音テープで聴いた明石家さんまは、そこでの子供と大人のはちゃめちゃなやりとりからヒントを得て、テレビ番組『あっぱれさんま大先生』を企画したのだという。
さんまと勘三郎はいずれも1955年生まれ。両者は公私にわたり交流があり、1999年に勘三郎(当時はまだ勘九郎)がNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で主役の大石内蔵助を演じたときには、さんまが友情出演した。それは、吉良邸討入りの計画をカモフラージュするため日々遊び歩いていた内蔵助を、さんま演じる店の主人がたしなめるという場面。撮影では完全にアドリブで、内蔵助の妻・りくを演じた大竹しのぶ(いうまでもなくさんまの元妻)のこともネタにしつつ当意即妙のセリフが交わされたものの、残念ながら放送ではほとんどカットされてしまったのだとか。
勘三郎の交友関係は、その通夜や密葬に参列した顔ぶれからもうかがえるように幅広かったが、とりわけ同世代の人たちとの関係は深かったように思う。訃報を受けて真っ先に勘三郎宅にかけつけた元プロ野球選手の江川卓も、劇作家・演出家で俳優の野田秀樹も同い年だ。このうち野田は、生前の勘三郎が歌舞伎界で新たな試みに果敢に取り組むなかで、いわば「同志」として大きな役割を担った。以下、その経緯をちょっと見てみよう。
野田秀樹と夜の歌舞伎座に潜りこむ
中村勘三郎と野田秀樹が出会ったのは、30歳ぐらいの頃というから1980年代半ばのこと。互いに役者仲間を引き連れて街を歩いていた2人は、すれ違いざま、「あっ、野田秀樹だ」「あっ、中村勘九郎だ」と思わず相手の名前を口にしたのが、その初対面であったという(小松成美『勘三郎、荒ぶる』)。かたや気鋭の歌舞伎役者、かたや当時「劇団夢の遊眠社」を主宰し小劇場ブームを牽引した劇作家は、会う前から意識しあっていたようで、知り合いになってまもなく、いつか野田の脚本・演出で歌舞伎を上演しようと意気投合する。1990年に『銀座百点』という雑誌に掲載された対談でも、以下のようなやりとりが見られる。
《中村 だけど一ぺん、歌舞伎役者が全部本気で野田さんに演出してもらって演ったらおもしろいだろうねえ。
野田 可能だったらばねえ。
中村 たとえば歌舞伎座の稽古場へパッと来て「野田です」って言って稽古して、怒ると「バカヤロー、なにが野田だ」って言ってやめちゃう役者がいっぱいいるから話は止まっちゃうんだけど(笑)、でもほかに二十人くらいそういう気持ちになればできる。それで花組芝居のみたいなのを全員歌舞伎役者がやったらおもしろいと思うんだ。
野田 ああ、それはおもしろい》(『銀座百点』1990年1月号)
同じ対談では、のちの「平成中村座」を彷彿とさせる構想も語られている。発言中に登場する河竹黙阿弥とは幕末から明治にかけての歌舞伎作者だ。
《中村 (中略)だけど小屋は欲しいなあ。いまの歌舞伎では河竹黙阿弥が墓から出てきたら、怒って帰ると思うよ。
本誌 それは演っているのを観て——。
中村 というより、やっぱり空間が違うんですよ。だってあれは全部、間口十何間のところにあてて書いたわけでしょう。それを歌舞伎座のキャパでやってるの観たら「あ、ここも変えよう、こっちも直そう」ってきっと言うと思うの。おれにはその才能ないから言えないけど。
野田 だからほんとは、それが演出の仕事なんですね。
本誌 それが、いまは、小さい小屋用の芝居をただ寸法だけのばして演じているという……》
江戸の芝居小屋を再現した「平成中村座」の旗揚げが2000年、野田の脚本・演出による新作歌舞伎の上演が実現したのがその翌年の2001年のこと。くだんの対談から数えてもじつに10年もの時間がかかっている。
勘三郎の心に本格的に火をつけたのは、1996年、「NODA・MAP」(野田が「夢の遊眠社」解散後に設立した演劇の企画制作集団)の番外公演『赤鬼』を観たことだった。「これは歌舞伎だ!」と思った勘三郎は、それから仲間の歌舞伎役者たちとともに「NODA・MAP」のワークショップに参加したほか、野田と頻繁に会ってはミーティングを重ねていく。しだいに彼らは新作歌舞伎を、歌舞伎の殿堂である歌舞伎座で上演することを目指すようになる。
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