ご無沙汰です。このぼくでも師走は(特に今年は)何かと忙しく、あまりちゃんと本が読めなかった。これがしばらく間のあいた最大の理由ではある。でも、もう一つ理由がある。今回はちょっと、長い本を読んでいたからだ。トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』(新潮社、上下)だ。
トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Complete Collection)
ぼくのこの書評は、とにかくいろんな本を乱読して、それについて片っ端からコメントする形になっているし、その本のとりあわせの乱雑さが売りではある。だから、放っておくとつい、お手軽に読みやすくて数が稼げる本にばかり流れてしまう。薄い新書や文庫本は早く読めるからだ。それに前にも書いたけれど、ビジネス書や自然科学や経済解説書なんかはとても楽だ。だって、すでに自分が知っている部分は読まなくてすむんだもの。
でもそうした本に偏りすぎると、そうでない本の比重がどうしても減る。特に割を食うのは、分厚い小説だ。小説はあまり流し読みしても意味がないし、知ってる部分を飛ばすこともできない。あと小説の連続性をある程度は重視して、なるべくその小説に集中したいので、つまみ食い的に途中で他の本を読むのもはばかられる。それでも、普通の小説なら、ぼくはかなり早く読めるのだ。ただ、この『メイスン&ディクスン』に限ってはそうはいかなかった。なぜかというと、この本は意図的に読みにくくできているからだ。
メイスン=ディクスン線というのがあって、これはいまのアメリカ合衆国東半分の真ん中あたりを東西に走る線のこと。アメリカの北部と南部を分ける線で、南北戦争における奴隷州と自由州を分ける線でもあった。本書は、この線を測量して引いた2人、チャールズ・メイスンとジェレマイア・ディクスンの出会いから死までを描いた小説ではある。この2人、純粋な測量士というわけではなく、むしろ天文学者系の人物だ。だから出会って最初は、南アフリカでの金星の太陽面通過を測定しにでかける。そして、その後アメリカに派遣され、フィラデルフィアから出発して、アメリカ建国の祖たちとも出会い、東西の線を引く旅に出る——。
この小説は、その道中記ではある。でもこれは全編、一時はメイスンとディクスンに同行したと称するチェリコーク牧師なる人物が、チャールズ・メイスンのお葬式にやってきて、そのまま居座り、2人の物語を語る、という形式で書かれている……と言っていいのかな? 最後のほうになると、だんだんこの話者は希薄になり、ほとんど意識されなくなるのだもの。そして談話だから、その語り口はまさにアメリカがイギリス植民地だった時代の英語となっている(調べてみると、その時代の英語をさらにピンチョンが大げさに仕立てた代物なんだそうな)。ものすごく古い、そのままでは多くの人はまともに読むのもむずかしい英語で、このぼくですら原書が1997年に出たときには、早速とびついたものの50ページも進まないうちに挫折したほど。
そして、きわめて些末な話が事細かに描かれている一方で、その話の舞台がいつ、どこで展開しているのかについては判然としない書き方がなされている。また、様々な人物がいきなり登場するけれど、それが何者かという説明はほとんどないも同然。いきなり舞台は切り替わり、知らない人がゾロゾロ出てくる。同じエピソードの中でも、話者の視点は何のことわりもなしに切り替わる。そして全体としての明確な構成とかストーリーラインがあるかというと、そういうわけでもない。次から次へと、変なエピソードがまったく並列に書かれるだけ。
その変なエピソードは、各種の陰謀論をまぶしたものが多く、トマス・ピンチョンの十八番とも言えるもの。地球空洞説を主張する人、しゃべるハト、ジオマンシー(土占い)、イエズス会と中国人の陰謀、その中国人の風水論、グレゴリオ暦採用に伴う失われた十一日などが次々に並ぶが、それがどれも、出てくるだけ。陰謀が展開したり、謎が解明されたりということもない。あと、ワシントンやジェファソンやフランクリンといった建国の偉人らも登場するけれど、この人たちも登場するだけ。
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