あらすじ:1977年、イランのテヘランで生まれた垰歩。奇行癖のある姉と自己中心的な母に振り回され、父の仕事で世界各地を転々とするうちに、できるだけ静かに目立たずに行きていくことが信条となる。幼い頃、エジプシャンの親友ヤコブとの間で通じ合った「サラバ!」という魔法のような言葉。時を経て、世間の波の中で自分を見失ってしまった歩に、再び「サラバ!」の奇跡が訪れる。
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「サラバ。」
声に出すと、言葉と一緒に涙と、涙より熱いものが溢れ、僕はほとんど呼吸困難だった。それでも言った。
「サラバ。」
僕らは言い続けた。
「サラバ。」
そのとき、河が、大きく波うち始めた。
最初は小波のように、そしてどんどん大きく、やがて僕らの足元まで脅かすような高波になった。僕らは声を出さなかった。それどころか、腰もあげなかった。ただ涙を流し、河面を見ていた。
あの時の感情を思い出すのは、とても困難だ。
あんな不思議を体験したことは、後にも先にもあのとき以外なかったし、その出来事をどのように考えればいいのかも、未だにきちんと説明がつかないでいる。
僕らはわかっていた。
その数秒後に起こった出来事に、僕らは本当に、本当に心から驚いたのだったが、僕らはそのとき分かっていたのだ。それが起こることを。
「サラバ。」
僕らの前に、大きな白い生物が現れた。
――『サラバ』上巻 256ページより
大いなるなにかで主人公を変えてはいけない
—— 作家生活10周年、おめでとうございます。
西加奈子(以下、西) ありがとうございます。
—— その節目に発表された『サラバ!』を読みまして、とてつもない傑作が誕生したと思いました!
西 いや! もったいないお言葉でございます。
—— 90年代から今に至るまでさまざまな事件や天災があって、私も含めて西さんと同じ世代の人たちは、物心がついて以来ずっと傷ついてきたんだと思うんです。その苦しかった歴史を1977年生まれのひとりの男の自叙伝の中で総ざらいした上で、最後にはこれ以上ないくらい誠実で、真摯で、その傷口にフィットするメッセージを届けてくれます。
西 もう、ホンマにうれしいです(笑)。
—— 今回もと言えるのかもしれませんが、家族の話になりましたね。
西 そこには私が大好きなジョン・アーヴィングとかトニ・モリスンといった作家の影響がすごくあります。主人公のことを書く時に、さかのぼって家族のこととか、何代も前のことから書くっていう姿勢が好きで。それってすごく登場人物に対して真摯やなーって思っていたんです。
それと書きながら思っていたんですが、担当が『さくら』と同じ石川さん※っていうのは大きくて。『さくら』でできなかったことをやりたいという思いもあったんです。
※小学館の担当編集者。西さんのデビュー作『あおい』の他、『さくら』『きいろいゾウ』などを手がけている
—— それは具体的にはどういうことでしょうか。
西 まず作家として私が好きなものを書けるようになったのは、『さくら』が売れたからというところがあるんです。私にとってもものすごく大きな作品。
『さくら』も家族の話なんですが、その中でお兄さんが死ぬんですよ。しかも絶望しながらひどく悲しい死に方で。あの時の、2003年頃の私にはそれが全力やったから恥じるつもりはないんですけど、今の私やったら物語を動かすために、登場人物を殺してしまうようなやり方はしなかったと思うんです。
—— 確かに今回の『サラバ!』でも死んでしまう人はいるけれど、ほぼ老衰といえる自然な死に方ですね。
西 そこはすごく気をつけていたんです。歩は、たとえば大いなる何かというか、誰かが死ぬという出来事をきっかけに堕ちていくとか、気づいていくんじゃなくて、髪が抜けるとか誰にでもあることで、どんどん変わっていくようにしたかった。
—— そういう思いがあったんですね。それと、この小説の中には、音楽や文学、映画などからの引用が多く登場します。歩のまわりには、自分の愛する芸術作品から生きる力や自分が自分として揺らがないための力をもらっている登場人物がいますね。ここにはこれまでの西さんと芸術作品との関わり方が反映されているということでしょうか。
西 そこはそうでありたいという願望ですかね。もちろん映画も小説も音楽もずっと大好きだったけど、若い頃は周りの人がいいと言うものをいいと思っていた。
たとえば私はヒップホップが好きだったんだけど、周りにはそのことを言わなかったんです。その頃はバンドブームで、みんながそれがいいって言うんやったら、私もそれが好きだと思っていました。無理していたわけではなく、無自覚に受け入れていましたね。
—— 自分の好きには自信が持てなかった。
西 今は純粋に好きなものは好き、好きじゃないものは好きじゃないって言える強さも持っているけど、若い頃はそうじゃなかった。これが流行っています、これが正しいことなんです、て言われたら、なるほど!ってなんの疑問も持たなかった。
『サラバ!』の中で主人公のお姉さんの台詞<あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ>っていうのも、確かに私が書いた言葉だけど、お姉さんに言ってもらったという感覚があるんです。作家として、人間として、この10年間やってきて、私はだいぶ強くなってきたし、自分のことが好きやし、信じるものはできたけど、最後にトドメを刺してもらった感じがあるんです。
すべての物語に対する感謝の一冊として
—— いかに自分を信じるかというのは、西さんの作品で繰り返し描かれているテーマと言えますよね。
西 いろんな人の顔色を見て、いや顔色を見てるっていう感覚すらないくらい当たり前に、これが正しいんでしょう?って思って生きてきた感じがしたんです。作家になって、小説を書いていくことは、ある意味でそういう自分を自分で変えていこうとする作業だったんです。
自分の信じるものは自分で決めたい。いろんな作品を読んで、いろんな作家に会って、いろんな経験をして、そのどれもがどんどん私を作家としても人間としても強くしてくれました。その中でも一番大きかったのは、やっぱり書く作業だった。自分が自分の小説を書くことで、書くからには自分もそうでないとあかんと思ったし、目をつぶってたことを見なあかんと思ったんです。
—— いつも同じテーマに向かってしまうというのは、無意識にというか、書いているうちにそうなってしまうということですか。
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