一故人

高倉健、小野田寛郎、やしきたかじん、大西巨人……2014年物故者を追悼する(前編)

「一故人」は、2013年の年末にも行った、その年の物故者を偲んだ記事を掲載しました。今年も多くの鬼籍に入った方々を追悼する記事を前後編でお届けします。前編は、菅原文太をはじめ、鈴木則文、土井たか子、ガルシア=マルケス、永井一郎、ヤルゼルスキなどについてです。今年を振り返りながら、ぜひお読みください。

高倉健と菅原文太—その対比から見えてくるもの

2014年11月28日に菅原文太が亡くなったとき、報道では、同月に亡くなった高倉健(11/10。以下、カッコ内の日付は命日を示す)と比較されることも多かった。映画会社の東映にあって、高倉は1960年代半ばから70年代初頭にかけての任侠路線でスターとなった。これに対し、新東宝、松竹を経て東映に移籍した菅原は、任侠映画の人気の衰えとともに、東映社内で新たなスターが求められるなかで実録やくざ映画『仁義なき戦い』(1973年)に出演し、スターの仲間入りを果たす。

ストイックで寡黙な「健さん」と、粗野で無軌道な「文ちゃん」とスクリーンでのキャラクターは異なれど、いずれも斜陽にあった日本映画界を支えた名優である。高倉の最後の主演映画となった『あなたへ』が公開され、菅原が俳優業からの引退を宣言したのは、いずれも2012年のことだった。

こうして高倉と菅原を比較するだけでも、ここ半世紀の日本映画の動向など色々なものが見えてくる。「人間の世界の個性と多様性、その人物の役割と意味は、対比を通してより明確に浮かび上がってくるのではないか、と常々感じていた」として、『対比列伝 戦後人物像を再構築する』(1982年)という本を著したのは、編集者の粕谷一希(5/30)である。

総合雑誌『中央公論』などで編集長を務めた粕谷は、同書において小林秀雄と丸山真男や近衛文麿と吉田茂など昭和の知識人・政治家を2人ずつ対比しながら、同時代の問題を浮かび上がらせようとした。この記事でもその手法にならって、私なりの組み合わせで人物たちを対比しながら、2014年の1年間に亡くなった著名人を振り返ってみたい。

鈴木則文と曽根中生—映画斜陽期の職人監督

鈴木則文(5/15)と曽根中生(8/26)は、いずれも日本の映画業界が停滞していた時期にあって、2本立てや3本立てで上映するため量産された、いわゆるプログラム・ピクチャーを数多く手がけた映画監督である。東映に所属した鈴木は、『緋牡丹博徒』シリーズなど任侠映画の脚本を手がける一方で、監督としては喜劇センスあふれる作品を多数撮った。『仁義なき戦い』シリーズと並ぶ菅原文太の代表作である『トラック野郎』シリーズも彼の作品である。

東映が任侠路線から実録路線へと転じるのと前後して、経営不振に陥っていた日活は、低予算の成人映画を前面に出したロマンポルノ路線に踏み切った。曽根はその中心的監督として、蟹江敬三(3/30)主演の『天使のはらわた 赤い教室』(1979年)などの名作を残している。だが1988年、『フライング 飛翔』の公開後に突如として失踪。金銭トラブルで殺されたなどさまざまな憶測が流れたが、2011年、大分の湯布院映画祭に姿を現し、関係者やファンを驚かせた。これを機に、失踪後に発明家となっていたことなど数奇な経緯が明かされ、亡くなる直前には『曽根中生自伝』も遺している。

曽根には一般映画の代表作として、シリーズ化もされた『嗚呼!!花の応援団』(1976年)がある。同名の人気マンガを実写映画化したこのシリーズには、元力士で芸能活動を始めていた龍虎(8/29)もレギュラー出演した。同時期には鈴木もマンガ原作の実写映画『ドカベン』(1977年)を手がけている。なお「ドカベン」の愛称で親しまれた元プロ野球選手・香川伸行(9/26)が大阪の強豪・浪商高校に入学したのは、この映画が公開された年のことだ。

山口淑子と土井たか子—女性政治家のパイオニア

高倉健や菅原文太を輩出した東映は、戦前の満洲映画協会(満映)出身者を中心にその基礎が形成された。満映は、日本が中国東北部に建国した傀儡国家・満州国のプロパガンダのためつくられた国策会社であり、ここから中国人女優として売り出されたのが李香蘭である。実際には日本人であった彼女は、戦後は本名の山口淑子(9/7)として女優を続けた。その後女優は引退したが、1969年にフジテレビの『3時のあなた』の司会者となり、70年代にはイスラエルとパレスチナの対立など中東問題を取材した。1974年より3期18年におよんだ参院議員(自民党所属。議員名は結婚後の本名である大鷹淑子)在任中も、テレビでの取材体験を生かして主に外交面で活躍した。その足跡は、アメリカの子役出身の女優で、のちに外交官に転身したシャーリー・テンプル(2/10)とも重なるところがある。

山口が、ときには政策面で対立しながらも、政界での数少ない友達としてあげたのが、社会党委員長や衆院議長などを歴任した土井たか子(9/20)である。女性議員が圧倒的に少ない時代にあって、土井は男性議員の無理解にもたびたび遭遇した。たとえば1970年代前半には、優生保護法の改正案をめぐる国会討論で質問をしていると、担当の大臣から「土井さん、あなたは子供を産んだこともないのに、こういう質問できるのかね」と言われたという。もっとも、2014年の都議会での女性議員に対するヤジ問題などを見ると、状況は40年以上経った現在もあまり変わっていないようにも思えるが。

シャロンとレネ—「加害」と「被害」

山口淑子は中東問題では終生、パレスチナへの共感を示した。そこには、国家としてのイスラエルが、歴史的背景は異なれどかつての満州国と同じく、他民族の土地を奪って建国されたという意識があったようだ。そのイスラエルの首相に2001年に就任し、パレスチナに対して強硬な姿勢をとったアリエル・シャロンは、06年に脳梗塞で倒れて事実上政界を引退したあと、一度も意識の戻らないまま亡くなった(1/11)。この間、パレスチナ側にも、イスラエルに強硬路線をとるイスラム原理主義組織ハマスによる政権が生まれ、いまなお両者のあいだでは武力衝突が絶えない。

イスラエルという国家を考えるうえで忘れてならないのは、ユダヤ人の流浪と迫害の歴史である。ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)はその迫害の極致といえる。フランスの映画監督アラン・レネ(3/1)は1955年の作品『夜と霧』で、第二次大戦中にユダヤ人が収容されたポーランドのアウシュビッツ収容所の現在の映像に、過去の記録映像をモンタージュすることで、ナチスの非人道的行為を告発した。

ホロコーストから生還した最高齢のユダヤ人女性だったアリス・ヘルツ=ゾマーは2014年、110歳で亡くなっている(2/23)。ピアニストだった彼女は、チェコ北部のテレジアンシュタット収容所においても、たびたびコンサートを開いては人々の心をなぐさめたという。ナチスの手を逃れてアメリカに亡命したオーストリアのトラップ大佐一家は、ミュージカルや映画『サウンド・オブ・ミュージック』のモデルとして有名だが、同家の7人の子供のうち最後に残った次女、マリア・フランツィスカ・フォン・トラップは99歳で亡くなった(2/18)。さらに、広島に原爆を投下した米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の12人の搭乗員のうち、唯一の生存者であったセオドア・ヴァン・カークも、やはり2014年に93歳で亡くなっている(7/28)。戦争の記憶と深く結びついた人々のあいつぐ死に、第二次世界大戦の終結から年が明ければ70年という時間の経過を否が応でも感じざるをえない。

小野田寛郎と小野盛—残留日本兵の戦後

1974年、太平洋戦争中にフィリピンのルバング島に派遣され、戦争終結後も戦闘を続けていた旧日本陸軍の少尉・小野田寛郎(1/16)が30年ぶりに帰国した。この間、現地の住民や警察と衝突を繰り返し、ともに行動していた部下たちは投降、あるいは戦死し、最後の2年間は小野田は一人で行動していた。

日本の敗戦後も復員することなく、海外に一定期間とどまった旧日本軍将兵(残留日本兵)は1万人規模におよんだ。しかしそのなかでも、小野田や1972年にグアム島で救出された横井庄一のように、現地住民と敵対関係もしくは無関係にあったケースは例外的らしい。むしろ多くの残留日本兵は、何らかの形で現地社会とかかわりをもった。インドネシアに残留し、オランダとの独立戦争に参加した小野盛(インドネシア名・ラフマット。8/25)はその一人である。小野は生存が確認されたうち最後に残った残留日本兵だった。

深田祐介と山口洋子—異色の経歴から直木賞作家に

小野田寛郎が30年にわたりフィリピンで戦いを続けた。作家の深田祐介(7/14)もまた、戦中・戦前のフィリピンを舞台に日本人ビジネスマンたちを描いた長編小説『炎熱商人』で、1982年に直木賞を受賞した。日本航空でロンドン駐在員や広報室次長を務めた深田は、直木賞の前に海外滞在経験をもとにした『新西洋事情』(1975年)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。このほか、ドラマ化もされた『スチュワーデス物語』(1983年)もその職歴ならではの作品だ。

深田と同様、山口洋子(9/6)も異色の経歴を持つ直木賞作家である。1957年、高倉健の2期あととなる東映ニューフェイスに合格したが、女優には早々に見切りをつける。すでにその前年、19歳にして東京・銀座に高級クラブ「姫」を開店していた彼女は、やがて歌謡曲の作詞にも手を染めるようになる。人気作詞家となったのは五木ひろしとの出会いが大きく、五木が1971年に4つ目の芸名で再デビューするにあたり「よこはま・たそがれ」を作詞、これが大ヒットとなった。1973年に五木が日本レコード大賞を受賞した「夜空」も、紅白歌合戦で歌った「ふるさと」も山口の詞だった。ヒット曲にはこのほか、中条きよし「うそ」、石原裕次郎「ブランデーグラス」などがあり、いまなおカラオケの定番である。変わったところでは、逢坂じゅん(5/8)がメンバーだった漫才トリオ・レツゴー三匹にも「東西南北ひとり旅」という歌を提供している。

山口が小説を書くようになったのは、クラブの常連客であった作家の近藤啓太郎の勧めからだった。1985年には「演歌の虫」「老梅」の2作で直木賞を受賞した。このうち「演歌の虫」には作詞家としての経験が生きていることはあきらかだろう。

渡辺淳一とガルシア=マルケス—老人と少女の恋

深田と山口の直木賞の先輩にあたる渡辺淳一(4/30)にも、もともとの職業である臨床医の体験から医学を題材にした作品が初期作を中心に多い。その直木賞受賞作「光と影」(1970年)も、明治初年の西南戦争を背景にした医学物だった。

80歳で亡くなった渡辺は、最晩年、次回作では少女の美しさを書きたいとある編集者に語り、実際に10代の女の子と、母親公認のもとでメールのやりとりや食事をともにするなどの取材をしていたという。それまで『失楽園』(1996年)をはじめ大人の男女の恋愛を何度となく描いてきた渡辺だけに意外な気もするが、書かれていたとしたらどんなものになったのだろうか。

コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(4/17)が76歳のときに著した最後の小説『わが悲しき娼婦たちの思い出』(2004年)は、まさに老人と少女の愛を描いたものだった。その巻頭には、川端康成の『眠れる美女』からのエピグラフが掲げられている。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

nyanmage_x 今年も多くの生き様が歴史へと変わって行った…自分も遠くないと覚悟しないと。 5年弱前 replyretweetfavorite

donkou というわけで、この1年に亡くなった著名人を振り返ってみました。2008年にメルマガ「ビジスタニュース」で始めて今年で7年目となるこの企画、今年は対比列伝風にまとめております。https://t.co/01hTRWfzGr https://t.co/QUfwRXFy2o 5年弱前 replyretweetfavorite