映画館へ出かけて席に座り、上映開始から終了までスクリーンをじっと眺めていれば、ひとまずは「映画を見た」という状態になるわけですけれども、「映画を見た」とはそのように単純なものではない、と考えさせられたできごとが、最近になってありました。今年(2014年)の6月、ロスアンゼルスの映画館で『ジャージー・ボーイズ』(’14)の予告編を見たときのことです。60年代のファッションや車、音楽といった風俗をていねいに再現した映像はむろん悪くはなかったのですが、個人的には、予告編の時点で大騒ぎするようなタイプの作品ではないという印象でした(過去の風俗を再現した映画は無数にあります)。しかし、劇場にいあわせた米国人たちの反応は非常にダイレクトで強いものでした。彼らは『ジャージー・ボーイズ』の予告編に興奮し、大いに歓声を上げていたのです。
ほんの数分の予告編における、いったいどの映像が米国人をこれほどに刺激しているのか、理由はよくわかりませんでした。わたしが見たのは、ステージで歌う男性グループ、60年代の車やスーツ、ノスタルジックな音楽などの要素でしたが、彼らは同じ映画館で、同じスクリーンに映る映像を見ながら、それ以上の何か、日本人の自分には見えない何かを見ていたように感じたのです。なぜ米国人たちは、これほどに大騒ぎをしているのか。予告編には、彼らの情緒に訴えるシンボルがきちんと織り込まれていて、文化的コードを持たない日本人にはそのシンボルが見えなかったのではないか(イーストウッドほどのベテランであれば、スクリーンに何が映っていれば観客がよろこぶかなど知り尽くしているはずです)。そう考えるうち、これまで自分はいかに集中力を欠いた状態で映画を見てきたかと不安になったものでした。
わたしはあのロスアンゼルスの映画館で、本当に『ジャージー・ボーイズ』の予告編を見たと言えるのだろうか。そもそも、「映画を見た」などと当然のように口にしてしまっていいものだろうか、という疑問をわたしは持っています。そして、これから紹介する6冊の映画の本は、「映画を見る」ことを疑う著者たちによって書かれたテキストだからこそ、発見が詰まっているのだと考えます。画面に大きく映っているにもかかわらず、見逃してしまっている「何か」があるのではないかと自分の目を疑う態度こそが重要になるはずで、以下に挙げる本は、そうした思考を助けるものではないでしょうか。どれもユニークで読みごたえのある本ばかりですので、気になる本がありましたら、ぜひ手に取ってみてください。
『映画の教科書 どのように映画を読むか』/ジェイムズ・モナコ(フィルムアート社)
今回、最初に『映画の教科書』を紹介するのは、同書が映画を知るための定番図書としてうってつけであること、映画を多角的にとらえ、さまざまな知識や理論を解説した総合的な書物として信頼できるという理由からです。著者ジェイムズ・モナコは「映画でかなりの経験を積み、視覚的に高度な読みとりができる(あるいは『映画を読める』とでも言おうか)人は、映画をめったに見ない人より多くのものが見えるし、聞こえる」*1と述べています。視覚的に高度な読み取りができるようになり、「より多くのものが見え、聞こえる」ようになるためには(それはどれほど甘美な映画体験なのか、考えるだけで胸が高鳴りますが……)、たくさんの作品を見ることと同様に、映画に関する思考を具体的に言語化すること、映画に関する批評を読むことが欠かせないようにおもいます。
つまりこの本は「映画を読める」ようになるための手引きでもあるわけです。カメラ、機材、フィルム、音響などのテクニカルな発展はどのように進んだのか、映像文法はどのようなものか。こうした問いに対して深く考察され、ていねいに解説されていく構成は実に魅力的でした。映画史の俯瞰も(やや辛口ではありますが)明快です。今回紹介する本のなかではアカデミックな部類に入りますが、読めば確実に映画への理解が増す一冊でもあります。
『ゴダールと女たち』/四方田犬彦(講談社現代新書)
ジャン・リュック=ゴダールという映画作家は実にやっかいです。ゴダールに関する本は無数に出ていますが(これほどに多くの評論が書かれた監督は他にいないようにおもいます)、そうした本を読めば読むほど正体がつかめなくなる、という奇妙な側面があります。彼の映画を見て、評論を読み、あれこれと考えるほどに、深い霧の中へ迷い込んだようになり、ゴダールをどうとらえればいいのかわからなくなってしまう。
本書において四方田犬彦は、大島渚(映画監督)の秀逸なゴダール評、「女房に逃げられる才能」*2にアイデアを得つつ、ゴダールを分析しようと試みています。大島は、ゴダールが革新的なのは、彼が愛した女性に次々と捨てられるからだと考えたわけですね。四方田は、ゴダールのフィルモグラフィを時系列に沿って俯瞰しつつ、作品に登場した女性たち(ジーン・セバーグ、アンナ・カリーナ、アンヌ・ヴィアゼムスキーなど)に焦点をあわせて、「女に徹底してフラれる」映画作家としてのゴダールを読み解いていきます。
わけても、女優アンナ・カリーナの表象を通して『気狂いピエロ』(’65)がいかに特別な作品であるかを語る章には、胸が躍らずにはいられません。しかし、そうしてゴダールへのまなざしを緩めずにいた四方田でさえ、最後には「目の前にいるのは、まったく好き勝手に思いつきで映画を撮っている、癇癪持ちで金にうるさい男なのだ」と書かずにはいられない。それこそがゴダールの不可解さであり、ややこしさなのだとおもいます。
『映画系女子がゆく!』/真魚八重子(青弓社)
本書の魅力は、著者の映画的基礎体力に尽きるのではないでしょうか。女性にとって身近なテーマである、恋愛、労働、コミュニケーション、性といった題材と映画を結びつけながら語っていく平易なスタイルを取っていますが、読者はしだいに、真魚が持つ映画の素養(これまでに見た映画の本数、美意識、テーマをつかみとる視点など)がきわめて高いレベルにあることを実感します。映画にとことんつきあい、時間をかけて映画表現のエッセンスを習得した著者にしか書けない本であると感じます。
映画に対して真摯であることは、真魚の大きな美点です。彼女の個人的経験と、映画内で語られるテーマをていねいにすりあわせた、エモーショナルで痛切な文章となっているため、あまり映画の知識がない読者であってもすんなりと読むことができるのも魅力。映画のチョイスについては、あまりマニアックになりすぎず、しかし、随所でこれはというセレクト(トリュフォー、ロメールといった仏映画が多く選ばれ、作品ガイドとしても機能している)が光っています。わけても、恋愛の悲痛を論じ、「『恋人は欲しいけどめんどくさい』。言葉にするとずぼらな感じがするが、ここには心が血を流す痛ましい真理があって、さまざまな感情を踏まえたうえで、この一言に集約できる気がする」と語られる『ブルーバレンタイン』(’10)論に胸を打たれました。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。