一故人

菅原文太—健さんから遠く離れて

『仁義なき戦い』などで鮮烈なイメージを残した菅原文太。彼はブレイクするまでにどのような道を歩み、そして多くの人に知られるようになって後、いかなる後半生を生きたのでしょうか。モデルとしての活動、「雷おやじの会」結成、井上ひさし『吉里吉里人』の映画化計画など幾つものエピソードを織り交ぜつつ、その生き様を今回の「一故人」では綴ります。

居を定めない人生

映画俳優の菅原文太が81歳で亡くなったのは、同じく東映出身のスター俳優だった高倉健の死去から18日後、2014年11月28日のことだった。それだけに没後の報道でも、両者が比較されることが多かった。ただ、なかには菅原と高倉が同時期にスターであったかのように伝えていたテレビ番組もあったのが、ちょっと気になった。たしかに『ごろつき』(マキノ雅弘監督、1968年)や『神戸国際ギャング』(田中登監督、1975年)など2人が共演した作品は少なくないし、生年も俳優としてデビューしたのも、高倉が2~3年早いだけなので、誤解されやすいのだろう。

しかし両者がスターになった時期は、特撮ヒーロー物でいえば、『ウルトラマン』(1966年放送開始)と『仮面ライダー』(1971年放送開始)ほどに違う。そもそも高倉が大学卒業から2年後には東映で主演デビューしたのに対し、菅原は紆余曲折を経て俳優となったうえ、東映に入るまでに新東宝、松竹と各社を転々としている。菅原が東映に移籍した1967年には、すでに高倉は東映任侠映画において鶴田浩二と並ぶ二枚看板となっていた。その任侠映画も1970年代初めには興行力が低下していく。1972年には高倉主演の『昭和残侠伝』をはじめ人気シリーズの終了があいつぎ、東映社内ではスターの世代交代が求められるようになる。実在のやくざの手記をもとにした深作欣二監督の『仁義なき戦い』(1973年)が企画されたのは、ちょうどそんな時期だった。菅原にとって『現代やくざ 人斬り与太』『人斬り与太 狂犬三兄弟』(いずれも1972年)に続く深作作品への出演となった同作は大ヒットし、彼は名実ともにスターとなった。

とはいえ、菅原にはスターになったという自覚はあまりなかったらしい。1975年のインタビューでは、「いい男で、強くて優しい」という従来の意味での日本映画最後のスターはやはり高倉健であり、自分との違いは歴然だとも語っている。そのことは、東映移籍後最初の映画『網走番外地 吹雪の斗争』(石井輝男監督、1967年)で高倉と共演したときから、すでに感じていたようだ。このとき菅原があいさつに赴くと、高倉は非常に丁寧に接してくれたという。《それ以後、健さんを目標にしながら、尚かつ健さんからどれだけ遠ざかれるかという事が、僕の中に作用としてあったような気がする》とのちに菅原は振り返った(『キネマ旬報』1975年11月下旬号)。同じインタビューでは、彼はこんな発言もしている。

《僕は宿命として、居坐っている星には多分なれないだろうと自分では思っているわけですよ。学生時代の下宿生活が尾をひいているのかどうか、居を定めないで流れている方が性に合っているというのか、自分でいくらかカッコつけて言えば、その方が菅原文太らしいだろうと》

このインタビューが行なわれた1975年、菅原演じる星桃次郎と、愛川欽也演じる「やもめのジョナサン」こと松下金造が全国各地をトラックでまわるエンターテインメント活劇『トラック野郎御意見無用』(鈴木則文監督)が公開された。当初は予定されていた作品の穴埋めとして企画された同作だが、思いがけずヒットしたためシリーズ化され、1979年までに10作がつくられた。

スクリーンのなかの桃次郎もまた居を定めず、彼宛ての郵便物は、行きつけの川崎のトルコ風呂(いまでいうソープランド)に届けられるという設定になっていた。こんなキャラクターは、高倉健には演じられなかったことは間違いない。菅原は1970年代以降、たしかに高倉から遠ざかることに成功したのである。

晩年にいたっても、《職業も住まいも安住の薄い我が人生だ》と語った菅原は(『週刊文春』2009年8月13・20日号)、生涯を通じて一つのところに落ち着くということがほとんどなかった。結婚して家庭を持ってからも、撮影で留守にすることが多かった。若いころにはほぼ住所不定に近い、放浪生活を送っていたこともある。ここでその足跡をたどってみたい。

仕事に身が入らなかった新人時代

菅原文太は1933年に宮城県に生まれた。父は地元紙『河北新報』の記者だったが、菅原が3歳のとき離婚したのを機に退職、菅原と妹を連れて上京する。だが、太平洋戦争中の1943年に父が出征、小学4年生になっていた菅原は妹と宮城の父の実家に疎開した。終戦後は地元の小学校から旧制中学(5年制)に進学するが、3年の終わりに旧制中学が新制高校に移行するのにともない、仙台第一高等学校(仙台一高)の編入試験を受けて合格する。高校時代は新聞部に所属、その1年後輩にはのちに作家となる井上ひさしがいた。井上によれば、高校新聞で学校を批判して、記事の差し止め騒ぎになったときにも、菅原は怒らず、へりくだらず、堂々と教師らと渡り合っていたという(『朝日新聞』1988年4月17日付)。

勉強そっちのけで映画を見まくったのもこのころだ。おかげで高校卒業を前に東北大学を受験するも不合格。父からは翌年も受験を勧められたが、とにかく東京に出たかった菅原は、次の年には早稲田大学の第二法学部を受験して合格する。学生時代は奨学金を受け、アルバイトもしていたとはいえ、それでも生活は苦しかった。画家になっていた父から上京のはなむけに譲り受けた蔵書も、やむなく古本屋に売り払って生活費の足しにしたという。家賃が払えないのでアパートも転々とした。ときには夜逃げをして、山谷のドヤ街に転がり込み、労務者たちとともに寝起きしながらバイトをするなど、どん底も味わった。そうこうしているあいだに、学費滞納で大学からは除籍されてしまう。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

Toshi5139 ストーリーと味のある役者人生。高倉健から遠く離れて光る星、、 5年弱前 replyretweetfavorite

donkou 本日更新のケイクス連載で 5年弱前 replyretweetfavorite