chapter3-7 バックトラック

女性と上手く会話するための心理学に基づくテクニックを教わった。さっそく習ったこと実践する。

 10月の最初の火曜日。秋の日差しが並木の上で踊るように輝いていた。

 僕は浜松町の約束のレストランの前で、詩織さんを待っていた。

(PM12:55 わたなべ) [レストランの前に着いたよ。]

(PM12:58 伊藤詩織) [いま、出るところ。]

 白のブラウスを着た詩織さんが、手に財布を持って歩いてくるのが見えた。

「今日はいい天気ですね」

 今日の午前中は仕事をする振りをしながら、永沢さんの講義を復習していたのだ。そして、僕はこのセリフを最初に言うと決めていた。

「そうだね。いい天気だね」

 狙い通りに、詩織さんは、文頭のイエスが省略された肯定文で返してきた。イエスセットがひとつ積み上げられた。

「いい天気だね。気分がいいね」と僕が言う。

「そうだよね」と詩織さんが言う。

 バックトラックを使って言葉のキャッチボールをしながら、イエスセットをさらに積み重ねる。

 僕たちは店員に案内されて、カウンターの席でとなり同士で座った。ランチメニューをふたりで見た。

「わたしは、日替わりピザにしようかな」

「ここのピザは美味しい?」

「うん、美味しいよ」

「へー、美味しいんだ。じゃあ、僕もピザにする」

 僕たちはピザのランチをふたつ注文した。

 詩織さんが、コップに入った水を飲む。僕も、いっしょにコップの水を飲む。ミラーリングをしてみた。

「会社はここから近いの?」

「うん、すぐそこだよ」と詩織さんが言う。

「すぐそこなんだ」と僕はバックトラックした。

「うん」詩織さんが答えた。「わたなべ君も、好きな時間に昼休みが取れるの?」

「そうだね。僕の仕事はひとりで完結してるものが多いから、大体は自由に昼休みが取れるね」

「わたなべ君は、弁理士の仕事してるんだっけ?」

「そうだよ。クライアントの発明を特許にして権利化していく仕事。詩織さんは何してるんだっけ?」

「わたしは、システム会社で事務してるよ」

「へー、どんな事務?」

「うちは、けっこう小さい会社だから何でもさせられてるよ。トラブル・シューティングとか、マニュアル作ったりとか、データ打ち込んだりとか……」

「へー、すごいね。でも、けっこう大変じゃない?」

「そうだよ。大変だよ。何でもやらされちゃって。昨日なんて、夕方の5時に、明日までにこのマニュアルを作っておかないといけない、なんて言われて、結局、終わったの夜の10時だよ。女の子に、そんなに夜遅くまで残業させる会社なんて本当に最悪だよね。もう、絶対に辞めてやろうと思っちゃった」

「大変だね~。夜遅くまでがんばったね~」

「大変なんだよ」

「でも、それは詩織さんが信頼されてるから、いろんな仕事を任されるんだよ」

「そうかな~」

「そうだよ。詩織さんは、がんばって仕事してるんだね。あっ、このピザすごく美味しいね」

「そうでしょ。ここのピザは美味しいんだよ」

「うん、ここのピザ、美味しいね」

「うん」

「そういえば、詩織さんは金沢出身だっけ?」

「そうだよ。わたなべ君は静岡だっけ?」

「そうだよ。金沢と静岡って似てると思わない?」

「どうして?」

 永沢さんに教えてもらったように、僕はふたりの共通の体験を探そうとしていた。ちょっと無理やりだけど。

「両方とも観光地で、海があって、温泉があって。なんかすごく似てない?」

「そうだね。去年、友だちと熱海に行ったよ」

「熱海に行ったんだ」

 思いがけず共通の体験が見つかって、僕は安堵した。熱海には何度か行ったことがある。静岡県は広いので僕の地元には近くはないが。

「うん。友だちと温泉に入って、金目鯛の煮付けとか美味しかったな。また、行きたいな」

「金目鯛も美味しいよね。静岡県民は金目鯛はしょっちゅう食べるんだよ」

「そうなんだ。金沢はね、ズワイガニが美味しいんだよ」

「美味しそう。僕も食べてみたいな」

「金沢だと、すごく安く売ってるんだよ」

「へえ。東京だと高級な食べ物だけどね」

「そうだよね」

「熱海の他は、伊豆はどこに行ったの?」

「熱海から、電車で下田まで行って、そこからバスで西伊豆まで行ったよ」

「西伊豆のほうは行ったことがないなあ。よかった?」

「うん。すごくよかったよ。西伊豆の漁師さんがやってる民宿に泊まったんだけど、新鮮なお魚をすごく安く食べれたの」

「へえ、行ってみたいな」

 僕たちは、ピザを食べながら、地元のことや東京に出てきて驚いたことなんかを話した。ふたりの共通の体験がいくつも見つかって、ぐっと親密さが増してきたように思った。ランチの時間はあっという間に過ぎて行った。

「あ、わたし、もう行かないと」

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ぼくは愛を証明しようと思う。

藤沢数希

恋人に捨てられ、気になる女性には見向きもされず、非モテな人生をおくる主人公のわたなべ。ある日、恋愛工学と出会い、彼の人生は大きく動き出す……。 ファイナンス、経済学、エネルギー政策に関する著作をもち、リスク・マネジ...もっと読む

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コメント

moxcha これ載せてるのか。cakes辞めたくなってきた。 2ヶ月前 replyretweetfavorite

Fujisawa_bot 恋愛工学が解き明かす愛の物語 2年以上前 replyretweetfavorite

larcfortdunord yes-setはガチ重要。 2年以上前 replyretweetfavorite

ikari_shinichi バックトラック、イエスセット。 2年以上前 replyretweetfavorite