10月の最初の日曜日、午後5時50分。
品川駅のJR改札口の前で待っていると、真由美さんが10分ぐらい遅れてきた。ヒラヒラとしたシャツに、ピッタリとしたジーンズを履いている。買い物袋をふたつぶら下げていた。
「ごめん、ごめん。ちょっと遅れちゃった」
「うん、ぜんぜん大丈夫。来てくれただけですごく嬉しいです。お腹空いてますか?」
「空いてる」
僕は永沢さんに教えられた通りに、天王洲アイルのほうの運河にあるリバーサイドのレストランにタクシーで移動した。1000円もしなかった。北品川の僕の家からも歩いて20分ぐらいの距離だ。このレストランに来るのは僕ははじめてだった。水辺にあるとてもオシャレなレストランだ。品川の高層ビル群も見渡せた。もっと早く来ておけばよかった、と思った。
「ここのお店は、地ビールが美味しいらしいんですけど、飲みます?」
「へー、じゃあ、それもらおうかな」
僕たちは、ビールで乾杯した。
運ばれてきた料理を食べながら、僕は街コンで話したようなことをまた繰り返ししゃべっていた。緊張を紛らわせるために、ビールをゴクゴクと飲んだ。僕は会話が途切れないようにしようと、彼女に次々と質問をしていた。
「真由美さんは、いま何歳ですか?」
「そういうことはふつうは女の人に聞かないものだよ」
「すいません。真由美さんの出身地は?」
「私は、東京育ちだよ。わたなべ君は?」
「僕は静岡出身です。真由美さんは、毎日どういう業務をしているんですか?」
「エクセルでいろいろとデータの入力したり、営業の人たちの資料を作るのを手伝ったりとか、いろいろやってるよ」
「なるほど。僕は、クライアントのメーカーに頼まれた発明を、特許庁に出願する正式な書類にする仕事をしています。そのときに少しでもクライアントの特許の範囲が広くなるようにしたり、特許審査官に認められやすいように書いていかないといけないんです。こちらで図表を作ったりすることもあります。こうやって、メーカーの研究者やエンジニアの最新の発明に毎日かかわっているんですよ」
「へー、そうなんだ。弁理士なんて仕事があるのね」
「弁理士というのは、一般にはあまりよく知られていませんが、ものすごく難関資格なんですよ。弁護士と同じぐらい難しいとも言われていて、僕が資格を取った年の合格率は、たったの6%です。最近は弁理士の数がどんどん増えてきて、昔ほどではありませんが、これだけの難関資格なんで、年収も悪くありませんよ」
「ふーん」
アルコールが回ってきて、僕はさらにしゃべり続けた。適度な満腹感が心地いい。真由美さんはよく見るとけっこうかわいい。ヒラヒラのシャツからちょっと見える胸の谷間が色っぽい。こんなふうに、女の人とふたりでオシャレなレストランでお酒を飲むのはすごく楽しいな。
「お腹いっぱいになりました? まだ、何か食べますか?」
「お腹いっぱい。パスタもスペアリブも美味しかったね」
「デザートは?」
「うーん、食べたいけど。でも、太っちゃうし、もういいや」
会計をウエイターに頼み、僕がクレジットカードで支払いを済ませた。真由美さんは、少しも払わおうとする素振りを見せなかった。僕は、永沢さんからの指令をどうやって実行するか考えていた。
「そろそろ出ましょうか」と僕は言って、レストランから出た。
運河の側を歩きながら、どうやって家に誘おうか考えていた。かなり飲んだけど、さすがにこれからそんなことを言わなければいけないと思うと、とても緊張してくる。
「わたし、品川駅なんだけど、ここでタクシーを拾おうかな」
「えっ、品川駅なら、この橋をわたって歩いていけますよ。すっ、すこし歩きませんか?」
それから数分間歩き、ふたつ目の橋をわたったところで、僕はとうとう切り出した。
「あのー、ここを左に曲がって、ちょっと歩いていくと、僕の家なんですけど。ちょ、ちょっとだけ、寄って行きませんか?」
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