第76回】「一昨日、死のうと思った」---ベルリンで独り死を待つ老人と尊厳死

ドイツのシュトゥットガルトに在中の川口マーン惠美さんが、EUから見た日本や世界をテーマにお届けするコラムです。


〔PHOTO〕gettyimages

「肺にガンができた。今、死ぬのを待っているんだ」

「ダメだ、全然元気じゃない・・・」

受話器から聞こえてきたWの喘ぐような声だった。Wはベルリンに住んでいる。久しぶりに電話をかけて、「元気?」と訊いたらこの返事だ。もう85歳で、持病があるので、それほど快調だとは思っていなかったが、しかし、ほとほと困った。

「どうしたの? 歩けないの?」

「ああ、もう歩けない。酸素の管につながっているよ。これがないと、息ができない」

Wは力なく答えた。少し歩くと胸が苦しくなるのは、もう、数年も前からのことだった。

「前よりもひどくなったのね」

「ああ、肺にガンができた。今、死ぬのを待っているんだ」

え? ガン? 苦しそうな声だが、しかし、頭はいつもどおり明晰のようだ。

「来週ベルリンに行くので、会いに行こうかと思ったんだけど・・・」

「それは嬉しい」

「でも、私が行ってもいい状態?」

「もちろんだ。外に食事には行けないが、コーヒーを飲みながら話ぐらいはできる」

可愛そうなW・・・。仲のよかった夫人が4年前に亡くなって、Wは今一人で暮らしている。

意地っ張りのWは、一人になっても、小さな一軒家を完璧に保っていた。遊びに行くと、いつもテーブルは美しくデコレーションされ、お茶のときはケーキがたくさん。夕食のときは、買ってきたごちそうがセンス良く並んでいた。私が感激して、「すごいじゃない、W!」と褒めると、「僕にだってこれぐらいできるってことを、実証しなければね」と自慢そうに言っていたものだ。

Wの病気のことを知ったその夜、彼の息子に電話を掛けた。息子の方は面識はあるが、あまりよくは知らない。訪ねていって良いものかどうかと訊いたら、「親父も喜ぶでしょう。どうぞ訪ねてやってください」と、かなりそっけない返事。そういえば、Wが電話で言っていた。「僕が家に一人でいるので、息子たちが怒っているよ」と。

Wと私は親子ほど年が違うが、昔から何となく気が合う。私はWの知的さと頑固さが好きだった。Wは政治の話になるととくに雄弁で、時事に対する批評は見事なまでに的を射ていた。

Wは東独の出身だ。官僚だったが党員ではなく、反体制の思想を胸に秘めていた。しかし、闇雲に西側を賛美するわけでもない。Wの心の中はとても複雑だ。彼の話にユーモアと皮肉と、そして、いぶし銀のように鈍い光を放つ諦念がちりばめられているのは、おそらくそのせいだ。Wと話していると、旧東独の知識人とはこういう人たちだったのだということが、ひしひしと伝わってくる。

「生きていても何の希望もないなら、死ぬのもいいじゃないか」

4日後、訪ねていったら、玄関のドアが少し空いていた。ゆっくりしか歩けないので、あらかじめ開けておいてくれたのだ。大声で「W! 入りますよー!」と叫びながら入ると、フロアで大きなアンプくらいの器械がブンブンと唸っていた。酸素の器械だ。

その管を辿って行ったところに、Wがいた。テーブルについて、私を待っていてくれたのだ。

Wは思ったほどやつれてはいなかった。ピシッとアイロンのかかったポロシャツを着ていた。ひとしきりハグやら挨拶をした後、彼は言った。

「キッチンに、コーヒーメーカーがセットしてある。スイッチを入れるだけでコーヒーはできる。悪いがやってくれ」

キッチンに行くと、解凍したケーキもお皿に乗っていた。Wの指図のとおり、ナプキンやらコーヒーカップを運んでいるうちに、コーヒーが沸いた。コーヒーを飲み、ケーキをいただきながら、Wの話を聞いた。

夏にひどく具合が悪くなって入院したときに、ガンが見つかったのだそうだ。その後、10回の予定で化学療法を始めたが、あまりに体調が悪くなったので、3回目で止めた。そして、ガンの治療も断った。

すると、息子二人と医者が相談し、別の病院に移ろうということになり、勧められるままに行ってみたら、そこは病院ではなく、とてもきれいなホスピスだった。頑固者のWは、「いやだ、家へ帰る」と言い張った。息子たちと言い合いになったが、病院に自分のカルテを見せろと要求したら、そこに「本人がホスピスに行くことを了承」と書いてあった。Wは承諾などしていない。

Wの場合、本人の頭がしっかりしているから、結局、誰も説得できなくなった。そこで、自宅に戻り、酸素の器械を入れ、一人暮らしで死を待つ生活が始まった。午前中、看護師が来て、午後には介護士が来る。Wがこの病状で、一人で、しかし、毅然と暮らしているのを目の当たりにしながら、私は感心というより、畏怖の念を感じた。これがWの醍醐味なのだ。でも、いつまで続けられるのだろう。

息子たちが彼をホスピスに入れようと思ったのは100%理解できる。こんな状態で、一人で家にいられたら心配でたまらない。しかし、Wは強情だ。息子たちも仕方なく、毎晩かならず交代で見に来るそうだ。

「だから、息子たちは頭に来てる」とWは言った。ちゃんとわかっているのだ。

「ホスピスの何が嫌なの? きれいだったんでしょ。個室でしょ。安心だし、独りじゃないし、いいじゃない」

「そうだけど、でも、あそこは僕の家じゃない。あんな知らないところに住みたくない。ここにいれば、『あ、あの本が読みたい』と思えば、ちゃんと本棚にある。ホスピスにこの家の物を全部持って行くわけにはいかないからね」

何となく、わかる気はする。ただ、私はズボラなので、年を取ったら、自分で何もしなくていいところのほうが楽だと思うような気もする。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

現代ビジネス

この連載について

初回を読む
シュトゥットガルト通信

川口マーン惠美

シュトゥットガルト在住の筆者が、ドイツ、EUから見た日本、世界をテーマにお送りします。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません