小説でも主役になった大スター
「待ってました、健さん!」
1960年代後半の東映やくざ映画『昭和残侠伝』シリーズでは毎作、主演の高倉健(2014年11月10日没、83歳)が新興やくざの横暴にこらえにこらえた末、ついに怒りを爆発させた。そしていざ敵陣に殴りこみをかける場面を迎えると、どこの劇場でも上記のような掛け声が客席から上がった……とは、もはや伝説として語られている。
同様の掛け声は、『昭和残侠伝』のみならず、前後して始まった『日本侠客伝』『網走番外地』など、ほかの高倉主演のシリーズでも上がったという。こうした現象は、ちょうど学生運動が激化していた時期だったこともあり、若者が自分たちの心情をスクリーン上の高倉の姿に重ね合わせたのだとも説明される。「観客がスクリーンに向かって声をかけるなんてことはそれまでにも、それ以降にもありえない。それほどまでにあの頃の観客の青年たちは健さんの芝居に深く共感していた」とは、『網走番外地』シリーズのうち6作を監督した降旗康男の言葉だ(野地秩嘉『高倉健インタヴューズ』)。なお降旗は1966年に『地獄の掟に明日はない』で初めて顔を合わせて以来、最後の出演作となった『あなたへ』(2012年)にいたるまで、高倉とのコンビで数多くの作品を世に送り出した。
東映やくざ映画、任侠映画とも呼ばれる一連の作品で高倉が大スターとなったのは、1964年公開の『日本侠客伝』で主演したことに端を発する。もともとこの企画は中村錦之助(のちの萬屋錦之介)のために立てられたものだったが、スケジュールの都合などから、当時錦之助が目をかけていた高倉を主役に話をつくり直すことになったのだという。監督のマキノ雅弘はそれ以前にも高倉主演で現代劇や時代劇を撮っていたものの、いま一つ人気が出なかった。高倉を「健坊」と呼んでかわいがっていたマキノとしては、『日本侠客伝』で彼をスターにしてやろうという気持ちがあったようだ。その狙いは見事に当たり、翌65年に始まった『網走番外地』シリーズも大ヒットして、マキノにしてみれば《そりゃあ、もう、バンバンザイだった》(『マキノ雅弘自伝 映画渡世・地の巻』)。
任侠映画でスターとなって以降、高倉は多くのつくり手たちを触発し続けてきた。それは映像の分野にかぎらない。たとえば、イラストレーター時代の横尾忠則は、高倉に惚れこむがあまり『憂魂、高倉健』(1971年。2009年にリニューアル完全版が出ている)という写真集を編集しているし、作家の丸山健二は、架空の物語のなかで高倉健が主役を演じるという長編小説『鉛のバラ』(2004年)を著している。ほかにも、さいとう・たかをの劇画『ゴルゴ13』(1968年)の主人公デューク東郷は高倉がモデルであり、その実写映画(佐藤純彌監督、1973年)では当人が演じたことはよく知られるところだ。
映画で高倉が見せるストイックかつ寡黙、あるいは不器用なキャラクターは、実際の彼とほぼイコールだととらえられがちだ。それというのも、本人があまり私生活について多くを語らなかったということもある。だが、本人としては世間に定着した自分のイメージに違和感を抱くところもあったようだ。たとえば、不器用な男というイメージについては以下のように語っている。
《僕、自分では不器用だとは思っていませんけどね。生命保険会社のCMで、「不器用ですから」ってコピーあてられてね。僕は何か、世間ではもう不器用な人間だと思われているから。そんなことはない。僕は充分、器用に生きているつもりだけど》(劉文兵『証言 日中映画人交流』)
しかし、そんなふうに彼が反発しても、けっしてイメージが壊れることはなく、かえって「健さんらしい」と思わせるから不思議だ。もちろん、上記のようなイメージは、映画の制作側から与えられたというばかりでなく、高倉自身の手でつくりあげた部分も多分にあったはずだ。小田剛一(本名)はいかにして高倉健になったのか? ここではその足跡をたどってみることにしたい。
マネージャーになるつもりが俳優に
高倉健は1931年、福岡県に生まれた。14歳で終戦を迎えた彼は、小倉の米軍キャンプへボクシングの試合を見に行ったり、司令官の息子と友達となったりするうちに、アメリカの文化に触れ憧れるようになる。高校に入ると英語部をつくって英単語を覚える一方、仲間と一緒に洋画をよく見に行った。とくに強い印象を受けたのが『哀愁』(マービン・ルロイ監督、1940年)というアメリカの恋愛映画だった。事前に映画の対訳脚本を買って繰り返し読み、見終わってからは友達と夢中になって感想を語り合ったという。しかし当時の高倉は、自分が映画俳優になろうとは夢にも思わなかった。そもそも彼が憧れていたのは外国に行くことだった。あるときなど、友人と密航をくわだてたこともあったという。結局これは未遂に終わったのだが、高校を卒業すると貿易商になることを夢見て、明治大学商学部に入学、上京した。
映画俳優になったのは“弾み”だったと高倉は語っている。大学を卒業したものの、就職難の時代だった。いったんは九州に帰り、父の会社を手伝っていたが、再度上京する。東京で好きになった女性と一緒になりたかったからだ。そのため東京でどうしても仕事を見つけなければならない。だが父親の知人から、百貨店や外国の航空会社といった、かなりいい就職口を紹介してもらったものの、高倉はこれを「僕は大きな会社のベルトコンベアーの一端にはなりたくありません」と断ってしまったという。
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