終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
37歳の地図——文化史のなかの『笑っていいとも!』2
『いいとも!』を生んだフジテレビの社内改革
1980年代、フジテレビはテレビ界を席巻した。それを主導したのは、『笑っていいとも!』をはじめ、それに先行した『THE MANZAI』『笑ってる場合ですよ!』『オレたちひょうきん族』といったバラエティ番組だった。これらの番組が台頭するきっかけになったのは、鹿内春雄が1980年にフジテレビ副社長に就任したのを機に実施された組織と編成の大規模な改革である。
組織改革の前提には次のような事情があった。その10年前の1970年、フジテレビは制作局を廃止し、制作セクションを複数の会社に分社化していた。番組制作の外注化による経費削減がその狙いである。同様のことは、カラー放送の拡充や地方ネット局の開局支援への多大な資金投入から、経営の合理化を迫られた在京の民放テレビ各局で推進されていた。だが、TBSのように、成熟したディレクターがより自由な環境を求めて自発的に社外に出た局とは違い、フジでそれを強制することは無理があった。分社化で編成から切り離された制作セクションは請負業者化し、意思疎通が妨げられたことで活力は失われていく(中川一徳『メディアの支配者 下』)。
このことは視聴率低迷の一因となった。そこでこれを改善すべく、制作会社とその社員をいま一度フジ本体に取りこみ、制作局として再出発させることになった。当時のフジテレビ会長・鹿内信隆(春雄の父)は「制作会社採用の社員も身分が保証される。わかりましたね」と周囲に噛んで含めるように言って聞かせたという(中川、前掲書)。『いいとも!』ほか前出の番組を手がけた若手ディレクターの多くは制作会社出身だったが、このときフジテレビ社員となった。彼らは、日本のポツダム宣言受諾後の混乱に乗じて少尉に昇級された「ポツダム少尉」になぞらえて「ポツダム社員」とも呼ばれた。名づけたのは、彼らを率いてフジ快進撃の立役者となったプロデューサーの横澤彪である。
編成での大きな改革は、フジ開局以来の看板トーク番組『スター千一夜』の打ち切りだった。同番組は平日(一時期は土曜も放送)のゴールデンタイムの15分枠(後期は夜7時45分開始)に長らく居座っており、編成を機動的に組むうえでネックとなっていたからだ。番組の終了にはスポンサーの旭化成がなかなか承諾しなかったが、1981年、鹿内副社長のもと番組改編が断行されたことで、ついに打ち切られた。
これら改革は奏功して、81年からフジの視聴率は劇的に上向きだし、秋にはついにトップに躍り出ることになる。「楽しくなければテレビじゃない」とのフレーズを同局が掲げたのは、まさにこの年のことである。それまで「母と子のフジテレビ」を標榜していた同局にとって一大転機であった。
なぜ『いいとも!』にタモリだったのか?
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