終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
37歳の地図——文化史のなかの『笑っていいとも!』1
関係者が反対した昼の番組への起用
2014年3月31日、長らく日本の昼のテレビ番組の定番だった『笑っていいとも!』(フジテレビ)が放送を終えた。番組終了時においてその放送期間は31年半に達していた。通算回数でいえば8054回、司会のタモリが番組を休んだ回数を差し引いても8001回と、いうまでもなく単独の司会者が務める生放送の番組としては断トツの長さだ。すでに2002年に5000回を迎えた時点で、ギネス世界記録の認定も受けていた。
ちなみに『いいとも!』の始まった1982年10月からさらに31年半前にさかのぼれば、テレビ放送どころか民間放送すら日本ではまだ始まっていなかった(日本初の民放開局は1951年9月、テレビ本放送の開始は1953年2月)。そう考えると、日本の放送史における『いいとも!』という番組の存在の大きさをあらためて感じる。
もっとも『いいとも!』がこれだけ長く続くとは、番組開始当初、関係者の誰も思っていなかった。同番組の初代プロデューサーの横澤彪も《これほどの長寿番組となるとは思わなかった》と書いている。それというのも、タモリとは「3カ月だけならやる」との約束でスタートしたからだ(横澤彪『犬も歩けばプロデューサー』)。タモリからしてみれば、毎日朝から出勤するのはいやだし、どっちみち自分はつなぎだろうというつもりでいたらしい。『いいとも!』は3カ月で打ち切りになるものと確信して、翌年正月にはハワイへ行こうと、飛行機もホテルも予約していたほどだった。
所属事務所の田辺エージェンシーの社長・田辺昭知も、この出演依頼を受けたとき、「タモリでなくてもいいんじゃない」と懸念を示したという。当時のタモリには夜のイメージがあまりにも強かったからだ。フジテレビでも、タモリを昼の番組に起用してはたして視聴率が取れるのか、心配するディレクターがほとんどだったという。
誰もが疑問を抱くなかで『森田一義アワー 笑っていいとも!』は放送初日を迎えた。1982年10月4日正午、スタジオアルタからの生放送でタモリは、髪型をトレードマークだった真ん中分けではなく七三に、衣装はアイビー調、サングラスもいつもより薄い色のものに変えて現れた。横澤彪いわく「森田一義」という新しいキャラクターをつくってやれば、昼向けの顔ができるとの狙いからだった。サブタイトルに「森田一義アワー」と掲げたのもそのためだ。
こうした新番組に合わせたイメージチェンジには、すでにタモリがメインを務めていた番組『今夜は最高!』(日本テレビ)のプロデューサー・中村公一の意向もあったという。横澤から「タモリを昼に使います」と伝えられた中村は、「夜のタモリは出さないでくれ」と頼んだというのだ(高平哲郎『今夜は最高な日々』)。
タモリ本人は、昼の顔にしようという周囲の演出にかなりの違和感があったらしい。それでも「どうせ3カ月で終わるんだから」と自分に言い聞かせていたという(佐藤義和『バラエティ番組がなくなる日』)。
しかし、佐藤からしてみれば『いいとも!』を3カ月で終わらせるわけにはいかなかった。彼は『いいとも!』の前番組『笑ってる場合ですよ!』を、内容がマンネリに陥りがちになっていたこと、また学校を無断欠席して番組観覧に来る中高生が増え社会問題とされたことなどを理由に打ち切っていたからだ。『笑ってる場合ですよ!』にレギュラー出演していたタレントのほとんどは、佐藤とは『THE MANZAI』以来のつきあいで、同志ともいえる関係を築いていた。そんな彼らを切り捨ててまで『いいとも!』を始めただけに、必死になるのは当然であった。だが、初回の視聴率は関東地区で4.5パーセントと振るわなかった。
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