故・ゲルト・ボンク選手 〔PHOTO〕gettyimages
東独に酷使され、統一ドイツに忘却されたスター選手
10月20日、かつての重量挙げのスター、ゲルト・ボンク選手が亡くなった。「世界一強い男」として知られた旧東ドイツの選手。享年63歳。東ドイツのドーピング・システムの犠牲者でもある。
ボンクは、2002年に回想記を出版している。タイトルは"Verheizt von der DDR: vergessen vom vereinten Deutschland"。直訳すれば、「東独に酷使され、統一ドイツに忘却された」という意味になる。
1975年、重量挙げのスナッチで246.5kgの世界新記録を達成した彼は、翌年、その記録をもう一度引き上げる。そして同年、モントリオールのオリンピックで銀メダルを取るが、まもなく倒れ、二度の蘇生の試みにもかかわらず、意識不明となった。
復帰後の1980年には、糖尿病の診断が下される。それでも、モスクワ・オリンピックにノミネートされたが、直前になって、ドーピング検査で陽性の結果が出てノミネートは取り消し。これでボンクの選手生命に終止符が打たれた。
1989年、ベルリンの壁が落ち、ドイツが喜びに沸いている中、腎臓の機能障害などで重度の身体障害者となったボンクは、37歳で障害年金の受給者となった。用を果たせなくなった選手は、かつての栄光が剥げ落ち、普通の人と同じく、最低限の治療しか受けられなくなった。そんな中、車いすに座りながら、彼は前述の回想録を綴った。
東独でどんどん発破を掛けられ、称賛され、東西統一で民主主義に移行した途端に、今度は自分のしてきたことが無意味どころか、不正となり、そのうえ重篤な疾病に侵された彼の人生は、壮絶なものだった。
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経口トゥリナボールの犠牲となった青少年たち
まだベルリンの壁があったころ、オリンピックといえば、東ドイツが圧倒的に強かった。この国の幼稚園と学校は、常にあらゆる方面に才能のある子たちを探していた。早期に才能を発見された子供は、特別に鍛えられ、芽を出せば、今度は専門の学校に移された。体育学校しかり、音楽学校しかり。運動に秀でた子供たちはハードなトレーニングを受け、世界に通用する選手となるべく養成されていった。
東ドイツのスポーツ選手の強さは、しかし、多くの場合、薬で増強したものでもあった。寄宿舎付の専門学校に入っていた未来のオリンピック選手たちは、まだ発育途上のころから、経口トゥリナボールを与えられていたのだ。世界のスポーツ界ではとっくの昔に禁止されていた筋肉増強剤だが、それを子供たちはビタミン剤だと教えられ、毎日、午前中にコーチの部屋で、コーチの見ている前で服用させられたという。その全容が、東西ドイツ統一後、次第に明らかになっていった。
未成年に与えられていたぐらいだから、当然、成年のスポーツ選手たちも服用していた。すでに当時から、西側のスポーツ界は東ドイツに対して疑いの目を向けていた。見る人が見れば、ドーピングはすぐに分かったのだろう。しかし、当時は、検査が今ほど徹底していなかった。
この問題が大きく取り上げられるようになったのは統一後だ。ドーピングしていたスポーツ選手たちの健康的被害も公表されるようになった。統一がなければ、犠牲者たちはぼろ布のように闇に葬り去られていたに違いない。それまでもおそらくそうだったように。
経口トゥリナボールは、イエナファームという東ドイツ国営の薬品会社がスポーツ選手用に開発した薬で、これを服用すると、疲れが出にくく、ハードなトレーニングに耐えられるようになる。また、気分が攻撃的になり、不安が取り除かれる。
犠牲者は皆、スポーツが大好きで、オリンピック選手を夢見てハードなトレーニングに励んだ青少年だった。12歳のときから服用していたというある体操選手は、「午後のトレーニングで、力がみなぎるように感じた」と語っている。そんな彼に、コーチは安全ベルトなしで危険な技を練習させた。
その結果、まず左腕を折り、次に右腕を折り、最後に肩甲骨がバラバラになった時点で、体操をあきらめた。夢が壊れ、失望は大きかった。しかし、彼の場合、そのおかげで経口トゥリナボールから離れることができた。練習場では、事故が非常に多かったという。
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