病院をやめてヨーロッパを放浪。まわりには美術商になったと思われていた
藤野英人(以下、藤野) 矢﨑さんは外科医としてのキャリアの後、現在の会社を立ち上げましたよね。そこまでの経緯をうかがいたいのですが、そもそも、どんな子ども時代を過ごされたんですか?
矢﨑雄一郎(以下、矢﨑) 生まれが長野の田舎だったので、自由に野山を駆けまわっていました。抑圧がなく、のびのび暮らしていたのを覚えています。
藤野 その後、医学部に入られるわけですが、お父様もお医者さんだったんですよね?
矢﨑 そうなんです、開業医の家系でして。でも、一度父親と「なぜ医者になったのか」という話をしていたら、本当は医者じゃなくて、物理学者に憧れて、ソニーのような工学系の会社で勤めてみたかったということを言ってました。好奇心旺盛で、独創的なところがあり、発明者的なところがありましたが、家業を継ぐということが唯一の選択肢であったということです。祖父は医者になって早くして亡くなってしまったので、父は病院を継がざるを得なかったところがあったのでしょうね。
藤野 お父様はやっぱり、矢﨑さんに病院を継いでもらいたいと思っていたのでは?
矢﨑 そうだと思います。だから大学までは、ある意味レールの敷かれた人生を歩んでいました。一方で、音楽がずっと好きだったんです。小学校の頃はトランペットをやっていて、中学からはバンドに興味を持ってギターを練習していました。オリジナルの曲をつくることもあったんです。なにかをつくることが好きだ、というのはこの頃から変わっていないと思います。
藤野 けっこうお医者さんって、プライベートでバンドをやっていたり、でオーケストラの一員だったりする方も多いですよね。
矢﨑 そうかもしれません。私はいまもなお、創作活動という面から見ると、音楽と経営が似ているなと思っています。
藤野 医学部に入ってからは、どんな医学部生でしたか。
矢﨑 普通の医学生だったのですが、ビジネスで活躍している人の話を聴くのが好きで、自分でアポをとっていろいろな方に会いに行っていました。当時から予防医療に興味があり最先端の人間ドックをやっている先生のところに、直接連絡して訪問したこともありましたね。
藤野 そうやっていろいろなものに関心を持っているなかで、外科医になろうと思ったのにはなにかきっかけがあったんでしょうか。
矢﨑 大学3年、4年のときに、叔父と叔母をたてつづけにがんで亡くしたんです。ふたりともまだ50歳前後でした。科を選ぶときに、外科系でがんの治療に関わる分野に進もうと思ったのは、このことがきっかけです。
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