「やれば、できる」?
私の友人の「できる人」代表格であるBさんは、オリンピック金メダリストやオリンピックコーチを家族に持つ超アスリートで、ハーバード大学とハーバード・ビジネススクールの卒業生です。
何ごとも「やれば、できる」が信条の彼は、五十歳の誕生日に「デカスロン」というイベントを企画しました。懸垂、腕立て伏せ、腹筋、片足立ちバランス取り、ボート漕ぎマシン、短距離走、長距離走、(アメリカンフットボールスタジアムの観客席を使った)階段昇降、サイクリング、水泳の合計十種目を競うスポーツイベントです。
「う〜ん」
招待メールを受け取った私は思わず唸ってしまいました。
私は小学校で一番、体育ができなかった人間なのです。家族ぐるみで親しくしている友人の大事な誕生日とはいえ、十種目を半日でこなすなんて無茶です。
苦しまぎれに冗談まじりのメールを返しました。
「競技のうち、ひとつかふたつはやってみるけど、全部は一生かけても無理かも。途中で挫折したら審判役になって、ワイロを受けつけることにしま〜す」
すると、たった数分でお叱りのメールが戻ってきました。
「ポジティブさが感じられない態度だぞ!」
あげく、こう命じられたのです。
「今できなくてもいい。やれば、できる。明日から当日まで毎週土曜日に特訓をするから、それに加われ!」
恐る恐る出かけてみると、悪い予想が的中してしまいました。
集まったのはそうそうたる顔ぶれだったのです。
ボストンマラソンをわずか三時間強で完走する男性、世界有数のレガッタレース「ヘッド・オブ・チャールズ」で四年連続優勝した女性、現役の高校陸上チームメンバー……。
みなさんはポジティブに「やればできる」と励ましてくれるのですが、懸垂で二十回以上を競っているメンバーに囲まれて「懸垂できません」というのはつらいもの。
私は十七年ジョギングをしていますが、ボストンマラソンを走る人たちにはとてもついていけません。ついていこうとすると苦しくなって途中で歩くことになってしまいます。すると、「がんばれ! やればできる」とはっぱをかけられるのです。
久々に、小学校のみじめな体育の時間が蘇ったようでした。
私がずっと体育が苦手だったのは、生まれつきの才能のなさもありますが、運動能力を鍛えるチャンスがなかったことも大きいと思っています。
両親が共働きで、祖母と曾祖母に育てられた私は、走れば「転ぶからやめなさい」、木に登ろうとすれば「落ちたらケガをする」、川遊びに行こうとすれば「溺れるからダメ」と禁じられました。そうやって育てられたので、筋肉も持久力もなく、幼稚園に入園するころには運動がまったくできない子になっていたのです。
逆上がりもできないし、山歩きの遠足では、息切れで集団からひとりだけ取り残されました。プールでも泳ぐどころか水に浮かぶこともできません。幼いころ毎日浴びせられた「危ない!」という言葉が脳裏に焼きついて、ジャングルジムさえ怖がる臆病な性格になっていました。
そんな私が大人になってからジョギングをしたり、泳いだりするようになったのは、体育の授業を離れたからだと思います。
苦手な競争をする必要もなく、先生に怒鳴られることもなく、級友からいじめられることもなく、自分で自由にやれる。すると、ジョギングも鬼ごっこやなわとびのように楽しいとわかったのです。
他人のペースに振り回されないためには
私もそうでしたが、「できる人」と自分を比べて「私には才能がないから、どうせ成功はしない」と決めつけて最初から努力を放棄してしまうのは、すごくもったいないことです。
他人の期待に応えるための努力は、苦しいかもしれません。でも自分がやりたいことをするための努力は楽しいものです。喜ばせる相手は自分だけですから、できる範囲でやればいいのです。
私は十七年走っていますが、いまだにマラソンは走っていません。なんとか泳げるようになったものの、いまだに波のある海には怖くて入れません。
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