教える楽しさに気づく
正式な方法で海外の大学に留学した人は「語学学校なんて」とばかにしました。「語学学校に行っても、英語を使う仕事になんか就けやしないよ」と断言する人もいました。
海外の大学に留学したかったのはもちろんですが、自分でなんとかするしかない私には、これしか選択肢を思いつかなかったのです。
私はもう一度貯金してイギリスに留学し、英語教師養成学校に入学しました。一九八六年のことです。
その学校では、実際に外国人学生を教える実習があり、実習の前には綿密な授業プランを立てて提出しなければなりません。
私はユーモアがある紙芝居を作ったり、ミステリの寸劇をさせたりしたので、生徒たちは「次はどんなことをするのだろう?」と楽しみにしてくれるようになりました。
期待されると、それに応えたくなります。ですから、寝ても覚めても授業のプランばかり考えていました。夢の中で「こういう教え方をしたら、きっとわかってもらえる!」と思いつき、深夜に飛び起きてメモをとることもあったほどです。
同級生には、イギリス人だけでなくソ連政府から派遣されたプロの英語教師もいましたが、私は担当教師たちから「クラスで一番の努力家」と褒められていました。
「君は日本人だからそれでふつうかもしれないが、ここはイギリスなんだ。もう少し努力を抑えてもらわないと困るよ」
同級生からそんな冗談を言われたこともあります。
でも、私には「がんばっている」という自覚はありませんでした。遊びと同じくらい楽しくてたまらなかったからです。
結婚式に来なかった両親
英語教師という職業の魅力にとりつかれた私は、帰国後には仕事がありそうな東京に引っ越します。しかし、私がそこで思い知ったのは、英会話学校が求めるのは「(白人の)外国人」だという厳しい現実でした。
二十七歳で新しい職と職場を探すのは容易ではありませんでした。東京では住所がなければ就職できないし、職がなければアパートを借りることができなかったのです。
ユースホステルの大部屋で外国人旅行者と一緒に暮らしながら始めたのが、外国人が日本語を学ぶ日本語学校のコーディネーターの仕事でした。
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