オーストラリア人のブロニー・ウェアは、終末期ケアで多くの患者を看取ってきました。死期の患者が人生を振り返ってもっとも後悔することを書いた彼女のブログは世界的に有名になり、『The Top Five Regrets of the Dying』(邦訳『死ぬ瞬間の5つの後悔』、新潮社)という本になりました。
末期患者が彼女に伝えた後悔のなかで、もっとも多かったのが次の五つでした。
死ぬ瞬間の五つの後悔
1、「他人の期待に沿うための人生ではなく、自分がやりたいことをやっておけばよかった」
2、「仕事ばかりしなければよかった」
3、「自分の本心を伝えておけばよかった」
4、「友だちと連絡を絶やさないでおけばよかった」
5、「自分を幸せにしてやればよかった」
このなかで、私は1と5に共感を覚えました。
人を不幸にする「成功」と「幸福」の幻想は、よく「他人の期待に応えようとする」ことから生まれます。5の英語の原文は「自分が幸せになることを許してやればよかった」という言い回しで、「幸せになる選択肢があったのに他人に遠慮してその行動を取ることができなかった」というニュアンスが含まれています。
ここでの「他人」とは、親、教師、伴侶、家族、上司などです。
彼らは、「親のいうことをよくきく子」「成績優秀な生徒」「大企業で出世する夫」「家事ができる従順な妻」「忠実で仕事ができる部下」を求め、あなたのパフォーマンスを常に厳しくチェックし、ちょっとしたミスでも減点し、こきおろします。
彼らには独自の採点基準があり、あなたがどんなに努力して、素晴らしいことを達成しても、決して満足はしません。必ず足りないところを見つけてあなたを批判し、落ち込ませるのです。
「世間体」や「社会の常識」も、顔が見えない「他人」です。彼らは、「女性は子どもを産み、良妻賢母になるべきだ」とか、「男性は高学歴高収入で、家族の面倒を見なければならない」といったステレオタイプでプレッシャーを与えてきます。
けれども実は、その「常識」そのものがいいかげんなものなのです。
「常識」を押しつける人たち
十八年前にアメリカに移住するまで、日本での私は多くの人から「常識がない」と言われてきました。親、親戚、教師、同級生、上司、同僚、友人、ただの知人……。ありとあらゆる人が「そのままでは、ろくな人生を送らないぞ」と忠告してくれました。
大学時代最後の夏休み、私がアルバイトで貯めたお金で、ロンドンでの短期語学留学に行ったところ、父は「勘当だ」と言い放ちました。
でも、反対されたために、「経済的に自立しよう」という決意はますます固くなったのです。
卒業して初めて就いた職業は大学病院勤務の助産師でした。
助産師の仕事は好きでしたし、新しい生命の誕生に立ち会い、妊産婦の助けになれるこの仕事を誇りに思ってもいました。
私を悩ませたのは、仕事以外のことです。
私が就職した大学病院には「桶谷式乳房管理法」の研鑽会で認定を受けたベテランの助産師(ここでは仮にAさんと呼びます)がいて、新人を自宅に招いて勉強会をしていました。
私と同期の新人はみな休まず通っていたのですが、私は何度か参加しただけで行くのをやめてしまいました。桶谷式で恩恵を受けるお母さんたちがいたのは事実ですが、私には納得できないことが多すぎ、自分が納得できないことを他人には勧められないと思ったからです。
そのころの私は、語学留学の準備も進めていました。
出費を極端に切りつめて貯金し、英会話のクラスに通い、少しでも時間があればNHKのラジオ英会話や国連英検用のテープを聴いていました。
ある日、昼食を食べながら英会話の本を読んでいた私に、Aさんがこんな皮肉を言いました。
「渡辺さんは、自分のやりたいことや、遊ぶことだけは一生懸命なのねえ。もっと役立つことに才能を使えばいいのに」
日本に暮らす助産師にとって、桶谷式乳房管理法は重要な勉強だけど、英語は遊びにすぎない、というのがAさんの「常識」でした。
必要経費以外の給与をすべて貯金して、二年後にロンドンでの長期語学留学を実現させた私は、帰国後また同じ大学病院に戻りました。高校時代に予測したように、再就職には困らない職業だったのです。
けれども、やりたいことに励めば励むほど、私にとって職場は居心地が悪い場所になっていきました。
私たちが勤務する病院には外国人の患者もいたので、彼らとコミュニケーションを取るときに英語は役立ちましたし、英語の専門文献も読めるし、決して無駄な努力ではないと私は思っていました。
でも、周囲はそういうふうには考えてくれなかったのです。
与えられた仕事はきちんとこなしていたつもりですが、同僚たちと一緒に遊びに行くよりもフランス語講座に通ったり、本を読んだりすることを選んだ私は、周囲に溶け込む努力が足りなかったのかもしれません。
アメリカの病院から来客があったときに病院長たちの通訳を頼まれ、夜勤明けにもかかわらずボランティアとして引き受けたのに、当時所属していた病棟の看護師長からは「目立ちたがり屋」と皮肉を言われました。
「やりたいことをがまんして周囲に受け入れてもらう」か、「自分らしく生きるために職業を変える」か。この二択で悩んだあげく、私は大好きな英語を使う仕事への進路変更を決めたのです。
どうせなら、楽しく生きよう/飛鳥新社