ベストセラー『地方消滅』の衝撃
前々回、前回と「人口」について見てきました。福島の人口流出・人口減少の問題について、「たしかに『福島の人口減少』は明らかだが、数字を追っていくと、実は『日本全体の人口減少』と同じレベルの問題になってきている」という話をしました。
「震災によって福島の人々は放射能に怯えまくっていて何十%も県外に人が流出しているんだ」みたいなトンデモ話が明らかな間違いであり、さらには、事態の正確な理解を阻む思考停止を促していること、また、「福島の人口減少は他の県とは比べ物にならない過酷な状況だ」というような無理解・不勉強を客観的に時間軸をずらしたりや他県と並べてみることで比較し正しました。
その上で、今回はさらに一歩進めます。
福島では「人口増えすぎる! どうしてくれるんだ」と困っている人がいます。
「減っている」んではなくて「増えている」んです。
「いや、でもここまで人口減少はしているという前提だったじゃないか……」と混乱する人もいるでしょうが、変なことは言っていません。福島では人口が増えすぎて問題が起こっている。
では、それはどういうことなのか。本題に入る前に、少し遠回りしながら話をはじめましょう。
いま、「人口流出・人口減少の問題」は福島の問題を離れても「流行って」います。今年に入って元岩手県知事・元総務大臣である増田寛也さん率いる「日本創生会議」が提示したレポートが話題になっています。
既にご存じの方も多いでしょうが、この議論の要旨は以下のとおりです。
いまから26年後にあたる2040年、多くの地方が「消滅」する。
消滅とは、一つには、推計対象の全国約1800市町村のうち896の自治体で20~39歳の女性の数が5割以上減る。女性の数がそこまで減るということは子どもの生まれる数が急激に減るということです。
もう一つが、523の自治体では人口が1万人未満となる。いまある4分の1以上の自治体が、それなりの人口のキャパシティを見込んで設計されていたものを抱えきれなくなります。例えば病院とか学校を維持するのが困難になる可能性がましていくわけですね。
これは多くの人に衝撃的を与えました。東京では必ずしももりあがっていないようにも思いますが、全国各地に講演などに行くと、自治体の職員の方や地域づくりNPOの方など、みんなこの話題に興味津々。
この「増田レポート」の内容やその周辺の議論については、レポート公開当初から月刊誌・中央公論がかなり分厚くフォローをしていて、その内容も含めて中公新書から『地方消滅』という本になってまとまっています。これは既に10万部以上売れています。
実は、「地方消滅」問題については、それをテーマにしたシンポジウムなどに私も複数回登壇して参りました。いくらでも言えることはありますが、ここでは、この「地方消滅」問題に限らず、これからの福島の、そして日本の人口問題の話をする上で必要な観点を2点指摘しておきたい。
一つは、「不安になっている暇があったら考えろ」ということです。
まず、「人口減少問題」自体はなにも新しくないことは抑えておくべきでしょう。今に始まった問題かというと、必ずしもそうではありません。パターンを変えながら定期的に盛り上がる「あるあるネタ」です。
例えば、「1.57ショック」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。1990年に当時の厚生省が、合計特殊出生率(女性が生涯に生む子の数)をまとめたところ、過去最低の1.57となった。
それまでの最低記録は1966年の丙午(ひのえうま)の年で1.58だったわけですが、これは迷信を多くの人が信じてのことでした。その「意図的に出産が抑制された年」を超えて、多くの人が子どもを産まない社会になった、ということが衝撃だったわけです。
夫婦2人で1.57人しか子どもを産まないということは、人口が減り続けることを意味する。それが明確に意識されるようになりました。
「25年」のタイムスパンが持つ意味
ところで、1990年から今年2014年は、24年たっている。増田レポートは2014年の現在から2040年という26年後の未来を見ている。
この「25年前後」というタイムスパンは、偶然のようですが、実は重要な意味があります。
他にも25年というタイムスパンをとって見えてくるものをいくつかあげてみましょうか。
日本社会の転換点としてよく意識されるのが1995年です。阪神淡路大震災やオウム真理教事件などいくつか衝撃的な事件がおこって、体感治安は悪化していきます。この年の後に、酒鬼薔薇聖斗事件や9.11テロが続いていきます。
じゃあ、例えば、この1995年のさらに25年前、1970年はどうか。実はここにも歴史の分断点がありました。
前年まで、全共闘運動が大いに盛り上がり、安田講堂での学生と機動隊の攻防などがあった。学生運動のみならず、労働運動もこの時期まで盛り上がり、冷戦も激化。「政治の季節」があったわけです。
ところが、1970年を境にして、左翼運動は連合赤軍事件などに至るように過激化して大衆的支持を失っていく。
一方で、既に明るみに出ていた水俣病に続く公害問題が意識化され、環境運動・エコロジー思想などが盛んになる。ヒッピーとか出てくる世界的なムーブメントも、この区切りです。
他方では、それまで意識の中心に置かれづらかったベトナム戦争はじめ第三世界・南北問題への意識も芽生えていく。
そんな中、最も衝撃的だったのはオイルショックでしょう。2度にわたるオイルショック、反省を迫られる社会の変化。高度経済成長によってのぼせていた空気が変わらないわけにはいかなかった。
重厚長大型の産業構造は転換し、都市化も進む。少子高齢化も徐々に加速し始めます。
「大きな政治の問題」よりも「自らの足元の生活の問題」に目が向いていくようになったわけです。
と、1970年を振り返った上で、さらにその25年前をふと見るとそこにあるのは何か。1945年。終戦の年ですね。つまり、そこを見据えると、なんでまた「政治の季節」になったのか。これもクリアになるでしょう。
それは、戦争や貧困、差別や暴力が生々しく生き残っていたからであり、そういうモードになったのも当然のことでした。そして、25年経つとそれらの問題構成は別の問題構成に変わっていったわけです。
福島にからめた話にしてみましょう。
福島県南相馬市のひまわり
2011年に日本で福島第一原発事故があったわけですが、その25年前って何があった年でしょうか。1986年。そう、ソ連でのチェルノブイリ原発事故ですね。
じゃあ、その25年前、これは一般にはあまり知られていませんが、1961年、アメリカのアイダホフォールズの海軍の軍事用の試験炉・SL-1で原子炉が暴走し、3名が命を落としています。
この事故はやはり原子力史上、衝撃的なものでした。それは、チェルノブイリ原子力発電所事故が起きるまで、原子炉で死者が出た唯一の事故だったからです。軍事目的の原子力関連事故なので、発電目的のそれほど注目されることはありませんが、ここにも歴史の転換点があった。
そんなわけで見ていきますと、この25年ぐらいの数字というのは、一つの「世代交代のタイムスパン」を指しています。
注意すべきは、これは別に予言みたいに「歴史の必然性」を言っているわけではありません。ただ、それは物質的に、人間が一世代の世代交代、再生産(出産・子育て)をする時間であるし、それに総形で精神的にも一つのモードが終わり、次のモードに移り変わる時間でもあります。良くも悪くも社会がある時期に持っていた意識を忘却し、次の意識へと模様替えをするわけです。
「惨事便乗型」知識人が去った後に
なので、「未曾有の危機がー」とか言ってパニクっていても仕方ないんです。3.11後、「社会を変えるにはー」とか「文明を反省しー」とか言いながら、その内実が実質スカスカで、ただ「怖いぞ-、大変だぞ-」という「危機感煽り産業」化している惨事便乗型知識人が大量発生しました。
多少聞きかじった話を継ぎ接ぎして、「福島の現実はこうなんだ」「あいつが悪いんだ」と、知性と立ち回りの器用さとを兼ね備え、お金儲けと知名度アップが得意な大先生方が荒らしまくり、そして気づけば去って行ってしまいました。
もちろん、二度と出戻って来て頂かなくて結構なわけですが、ただ、そういった先生方ほど器用ではなく、いまでも真摯に福島のことを愚直に考えようとする私たちは「そして誰もいなくなった」中で、そこに残った状況を、センセーショナリズムに流されること無く、エビデンスベースで把握・整理し、そこにある理解しきれていない謎を解いていくべきでしょう。
それこそが未来を適切に見通していく上で必須のこととなるでしょう。
現在起こっている様々な問題も、具体的にこうなるとはだれも思っていなかったかもしれないけれども、元から気づいていた人は気づいていた、来るべきものが来たということでしかありません。
そして、「増田レポート」は「人口」を通して、地方や今後の日本の抱える様々な課題を、明確にデータと論理を通して「見える化」してくれた良質な仕事だったという話です。