画家が語った物語
いらっしゃいませ。
bar bossaへようこそ。
まだbar bossaを開いたばかりのころのことです。最初の常連さんのひとりに50代半ばくらいの画家を名乗る方がいらっしゃいました。その方がある日ふらっと来店して、有名な絵の話なんかを聞いていたら、突然「私、実は今はもう描いていないんです」と仰いました。
僕も若かったので、遠慮もせずに「もしよければ、描けなくなった理由を教えてもらえますか」と訊ねてみました。
画家はボルドーのソービニヨン・ブランを口に流し込んだ後、少しずつ話し始めました。
——画家という職業を30年間やってきたのですが、描いたモチーフがたったのひとつ、私の妻だけなんです。彼女がとても美しい女性でしてね。私が20歳、彼女が18歳の時に私たちは出会いました。
彼女の美しさは、美の神様が彼女だけに特別な美を与えたような、そんなちょっと神々しさがありました。たぶん多くの男性は、彼女を見ても恋愛の対象とは見なかったのではないでしょうか。普通の男性は完璧な美に対しては恋心は抱きません。恋愛感情というのは、何かが欠けた人間が、同じく何かが欠けた人間に対して感じるものです。
しかし私は画家ですので、彼女の美しさを描こうと思いました。私は彼女にモデルを申し込み、彼女の美しさをキャンバスの上に定着させようとしたのです。
彼女の美しさは不思議でした。彼女の美しさが描けたと思い、絵から目を離し彼女を見ると、さらに彼女は新しい美しさを身にまとっているのです。
私は彼女の美しさを独占することにしました。ええ。彼女と結婚したのです。私が22歳で彼女は20歳の時でした。
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