上橋菜穂子【前編】人の社会がウイルスと重なって見えた

累計380万部を超える『守り人』シリーズや、累計200万部を超える『獣の奏者』シリーズなど、異世界を舞台にした壮大な物語を紡いできた作家・上橋菜穂子さん。世界中に愛読者を持つ彼女は、今年、国際アンデルセン賞を受賞。また、2016年には、綾瀬はるかさん主演で『守り人』シリーズのドラマ化が決定するなど、その世界の魅力にハマる人が今後ますます増えそうです。そんな中、発表された待望の新作『鹿の王』。前編ではこの物語を書くきっかけについてお聞きしました。

『鹿の王 生き残った者』(上) 『鹿の王 還って行く者』(下) 上橋 菜穂子

あらすじ:強大な帝国にのまれていく故郷を守るために戦う戦士団<独角>。その頭であったヴァンは奴隷に落とされ、岩塩鉱に囚われていた。ある夜、ひと群れの不思議な犬たちが岩塩鉱を襲い、謎の病が発生する。その隙に逃げ出したヴァンは幼い少女を拾う。一方、移住民だけが罹ると噂される病が広がる王幡領では、医術師ホッサルが懸命に、その治療法を探していた。ふたりの男が、愛する人々を守るため、この地に生きる人々を救うために選んだ道は?

この1ページがすごい!

 中庭に張りだした大きな窓から、燦々と陽の光がはいってくるその部屋には、巨大な水槽が置かれ、澄んだ水の中に緑の藻がゆらゆらと揺れていた。

 その藻の下に、灰色に変色した落ち葉のようなものが漂っている。

 水槽を見、それから祖父を見上げて、少年は唇をふるわせた。

「ぼく、ちゃんと育てていたのに。お祖父さまに言われたとおり、水を替えて……」

 祖父は少年の肩に手を乗せた。

「おまえのせいじゃないから、落ち着きなさい」

「でも!」

「落ち着いて、よく見てごらん。そら、その藻のところに、なにか見えないかね」

 少年は眉根を寄せ、水槽にぴったり額をつけて、藻を見つめた。

「……あ!」

 藻に、小さな粒が無数についている。少年は目を丸くして、祖父をふりあおいだ。

「お祖父さま、これ、卵ですか?」

 祖父はうなずいた。

「そう、卵だ」

 水槽を見下ろしながら、祖父は言った。

「〈光る葉っぱ〉は、卵を産むと、ほどなく死ぬ。一斉に。例外はない」

 少年の目に、ふっと暗い影がきざした。

「……子どもを育てないで、死んでしまうの?」

 祖父はうなずいた。

「生まれ落ちたときから、親の助けなしに己の力だけで生きていく生き物は、これだけではない。そういう生き物は、案外多いものだ」

 なにか考えながら、少年はじっと水槽を見つめていた。

「でも、〈光る葉っぱ〉はなんで死んだのですか? 卵を産んだら、急に死ぬなんて変だ。卵が殺したのですか?」

 祖父は、首をふった。

「そうではない」

 音もなく漂っている木の葉のようなものを眺めながら、祖父は言った。

「これの身体の中には、病の種がいたのだ」

「……え?」

「〈光る葉〉は、病の種を身に潜ませて生きる生き物なのだ」

 祖父は少年のかぼそい肩に乗せた手に、かすかに力をこめた。

「生き物はみな、病の種を身に潜ませて生きている。身に抱いているそいつに負けなければ生きていられるが、負ければ死ぬ」

 ため息をつくように、祖父は言った。

「ほかのすべてと、同じことだ」

『鹿の王 生き残った者』(上) 8ページから10ページより

人も、ウイルスも、なぜ静かに共存できないのか

— 今回の『鹿の王』は骨太なファンタジーであるとともに、謎の病をめぐる医療サスペンスのような側面もありますね。ページを繰る手が止まりませんでした。

上橋菜穂子(以下、上橋) ありがとうございます。

— 今、偶然、エボラ出血熱が世界的な問題になっていることもあってか、より生々しく病の脅威を感じた気がします。

上橋 書き始めたのは何年も前ですから、もちろんエボラのことを考えて書いたわけでは全然ないのですが、あまりにシンクロする部分が多くて、ちょっとショックですね。現地の人々の疑心暗鬼—自分たちがされている対応は本当にこれでいいのかと思う気持ちとか、そういうのが生々しくシンクロしてきちゃって。

— エボラウイルスは致死率が低くなり、宿主を生かすことで、感染者を増やす方向に進化したのではないか、とも言われています。ウイルスの“意思”のようなものにゾクッとするのですが、『鹿の王』はウイルスについて書かれた『破壊する創造者―ウイルスがヒトを進化させた』という本にインスピレーションを得て、書かれたそうですね。

破壊する創造者―ウイルスがヒトを進化させた
破壊する創造者―ウイルスがヒトを進化させた

上橋 ええ。「守り人」シリーズ、「獣の奏者」シリーズという大長編を書き終えて、スランプに陥ってたんですよ。一つの物語を書き終えると、私、何もなくなっちゃうの。だから、次の小説が書けるかどうか、自分でもまったくわからない。まったく心も動かないし、困ったなあと思いながら、生物学関係や医学関係の本をいっぱい読んでいたんです。
 というのも更年期に差し掛かって、自分の体に振り回されるという状態になっていたので、自分の体を知りたいと思ったので。どんどんおもしろくなって読んでいるうちに、その「破壊する創造者」っていう本に出会ったんです。

— 自分の体に関する興味が、まずあったんですね。

上橋 ええ。で、読んだら、これが猛烈におもしろくて。『破壊する創造者』は「ウイルスが、時として、身体を変化させる役割を担う共生体としてふるまう」ことがあるのではないかという発想で書かれた生物進化論に関する本なんです。これを読んで、改めて、ウイルスって不思議だなあと思ってね。
 ウイルスは単体では生きていけないもの。他のものに入っていって、他の体の中に住むことでしか自分の命をつなげないのに、その体を壊してしまったりする。エボラもそうですよね。なぜ、身体を借りて、一緒に住むだけで済まないのかな、と。

— 確かに、矛盾してますね。

上橋 矛盾ですよねえ。例えば、キスだけで感染して、身体に害を与えず、静かに繁殖するのであれば、多分、ずーっと静かに生きていけるだろうに。

— そうですよね。

上橋 そうできないのはなんでなんだろうとか考えていくうちに、これって人間社会ともよく似ているなあって思って。縄張り争いをせず、共存すればいいのに、すんなり共存とは絶対にいかないですよね。トラブルが必ず起きてくる。それにすごく似ている。

— ええ。

上橋 でも、その一方で、異なるものが出会って、一緒に住まざるを得ないのがこの世界であって、異質なものがなんとかして一緒に住む姿もまたウイルスが見せている部分がある。細菌もそうですけどね。お腹の細菌に私たちは助けられて生きているし、細胞にミトコンドリアがいなかったらエネルギーももらえない。そんなことを考えているうちに、こういう物語になっていたんです。

— ウイルスや細菌の在り様が、人間社会にも通じるというのは、すごい視点ですよね。

上橋 それは習い性というか、人類学を学生の頃からやっているせいだと思いますね。ずっと“社会”として人の営みを見ることが当たり前になっているから、ついついダブって見えてくるんだと思います。多分、お医者さんだったら、「ああ、これは人の身体のこの機能に似ているな」と思って見るかもしれない。それを、私の場合は「ああ、社会に似ているな」と思って見てしまうんです。

他人の体の中で生きる、オタワルの民

— なるほど。物語には支配する側である東乎瑠(ツオル)帝国、支配される側であるアカファ王国や遊牧民が登場しますが、高度な医学を武器に独自の地位を築いている“オワタル”の末裔の存在は、まさに象徴的な存在ですよね。

上橋 ははは(爆笑)、ごめん、“オワタル”じゃなくて、“オタワル”!!

— あっ、失礼しました!!!

上橋 いやいや、いいです、いいです(笑)。読みづらいよね。私もね、ほんとはカタカナの名前にしたくないんですけどね、名前って文化がすごくくっついてくるんですよ。漢字の名前にすると中国風になっちゃうし、ひらがなだと日本以外イメージできないし。

— ……すいません。とんだ言い間違えを……知識を武器にしたたかに生き延びる民なのに、よりによって“オワタル”などと……。

上橋 生きようとしているのに、“オワタ”って(笑)。いや、最高におもしろかったので、是非ここは入れてくださいね。で、オタワルが、なんすか(笑)?

— ええと、“オタワル”の民は、ウイルスと社会を重ねて見る上で象徴的な存在だったかと思うのですが。

上橋 そうそうそう。なんかね、書いているうちに、オタワルの人たちが大変おもしろくなってきてしまったんです。主人公の一人であるホッサルはオタワルの人間ですけど、彼のイメージが大きかったですね。帝国側、王国側、どちらの側にいても、飄々と生きていく男なんだけれど、その飄々と生きている感じがすごくウイルスとダブってきたんです。

— オタワルの末裔は、自分の国がないわけですものね。

上橋 そう。国というものを人間の体だと考えるなら、ホッサルたちは自分で体を作るわけではない。他の人の体に取り込まれるわけだけれど、その体を活かして生きていく。だから、どっちかっていうと、ウイルスっていうより、乳酸菌のイメージかな。人の身体を生かす細菌のあり方とオタワルって人々が重なってきた。そういう存在がいたらおもしろいなと思ってね、書いてみたんです。

生き物の体にある、死ぬためのセッティング

— また、冒頭の“光る葉っぱ”と呼ばれる生き物について、少年と祖父が対話するシーンがとても謎めいていて、ぐっと引き付けられました。卵を産むと一斉に死んでしまうこの生き物は「破壊する創造者」に登場する実在の生物をモデルにしているそうですね。

上橋 「エリシア・クロロティカ」というウミウシですね。『破壊する創造者』を読んだ時に、私の中で、何とも言えず、物語の匂いがしたのが、あのウミウシの話だったんです。
 生き物の体の中には、子孫を残した後、死ぬためのセッティングがちゃんとなされている。ウミウシはその典型だけど、例えば、私たち女性も、更年期障害が来ると、すごくそれを感じると思うんです。よく、女性は男性より脳卒中や心臓発作の発症年齢が遅い傾向にあるといいますが、これは、女性ホルモンのおかげなんですってね。子供を産む女性は女性ホルモンに守られてるわけですよ。でも、閉経後は急速に増えていく。「はい、子供産まなくなりましたね。もういりませんよー」と急に体から通告されるわけです。

— 残酷な通告ですね。

上橋 人間ドックで血液検査をしても、数値に現れてますからね。「あ、見離しやがったな、私の体」って思う(笑)。もう、死ぬためのスイッチ、入れられちゃったんだなって感じがして。
 『破壊する創造者』を読んだ頃、特に自分が更年期だったから余計に思ったんだけど、心の方は「まだまだこれから人生がある」って思ってるんだけど、体の方はもう着実にそうでない道を歩んでいくわけですよね。そして、私たちはいずれ自分の体に殺される。心の体もね。命という時に、私たちは頭のなかですぐ「人生」という抽象的なものをイメージするけれど、実際は生物としての生が厳然としてあるわけですよ。

スーパーパワーで体を治しては、意味がない

— 自分の体なのに自分が知らないということに、改めて気づかされました。また、この作品はファンタジーであるにも関わらず、その世界における医学の描き方がとてもリアルで現実的ですよね。随分、取材をされたのですか。

上橋 ウイルス関係の話はね、調べたというより、おもしろくて、いろいろ本を読んでいたんです。例えばね、顕微鏡しかない時代に、電子顕微鏡じゃないと見えないウイルスの存在をわかっていた人たちがいたんですって。先に想定があって、後で実証された。そういうことがおもしろくて読んでいたんですね。それが物語に出てきたという感じです。

— ネタにしようというよりは、おもしろくて自然と読んでいたんですね。

上橋 ただ、病気について嘘は書けないので、ウイルスの話になりそうだとわかった時に、医師である従兄に相談しました。それで、医学的に本当にあり得るなと思えたので、書きました。やっぱり、魔法のようなスーパーパワーで体を治したりはしたくないんです。それはまったく意味がないことなので。

— 『物語ること、生きること』という本の中でも、物語を書くにあたって「いちばん大切なところだけは嘘をつきたくない」と述べておられますね。

上橋 私は人の生き死にというものにすごく関心があるんです。生物である人間は、やがて死ななければいけない。それなのに生きている今というのに、どういう意味があるんだろうっていうことが気になって仕方がない。だからね、その生き死に関して都合がいいことだけは作れないわけです。

— 生き死において都合がいいこと、ですか。

上橋 ええ。生と死に関しては厳然としたこの世の節理があって、それをもとにすべてがある。自分の物語は基本的に、私の想像で生まれてくるものですけど、人ができないようなことによって、人が生き返ってしまうことはありえないし、書けない。書いても意味がない。そういう意味で「嘘はつきたくない」なんです。

— だからこそ、きっと、上橋さんの物語に描かれる命は重く、尊いのですね。次回では、具体的な創作法について、さらにお話をうかがわせてください。


次回「自分の体が見えないように、自分の物語は見えない」、11/18更新予定

上橋菜穂子(うえはし・なほこ)

作家・川村学園女子大学特任教授。文化人類学専攻、オーストラリアの先住民アボリジニを研究。1989年、『精霊の木』で作家デビュー。著書に、第34回野間児童文芸新人賞、第44回産経児童出版文化賞≪ニッポン放送賞≫をダブル受賞した『精霊の守り人』をはじめとする「守り人」シリーズ、第42回野間児童文芸賞を受賞した『狐笛のかなた』、「獣の奏者」シリーズなどがある。海外での評価も高く、2009年、英語版『精霊の守り人』で米国バチェルダー賞を受賞。2014年、“児童文学のノーベル賞”と称される国際アンデルセン賞≪作家賞≫を受賞。綾瀬はるか主演で『精霊の守り人』が2016年春からNHKでドラマ化されることも決定。

構成:小山田桐子 写真:渡邊有紀


鹿の王 (上) ‐‐生き残った者‐‐
鹿の王 (上) ‐‐生き残った者‐‐

鹿の王 (下) ‐‐還って行く者‐‐
鹿の王 (下) ‐‐還って行く者‐‐

dmenu

この連載について

書いた人に聞いてみた。

cakes編集部

いま世間で響いているおもしろい本、素敵な本。その本を書いた人に、じっくりとお話を聞いてみます。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

closebluedoor 頷きすぎてむち打ちになった。 12ヶ月前 replyretweetfavorite

kiq 1件のコメント https://t.co/aO6j3daLSr 2年以上前 replyretweetfavorite

kiq 1件のコメント https://t.co/aO6j3daLSr 2年以上前 replyretweetfavorite

seeds305 読まなきゃ。未読の上橋本があることの幸せさよ。しかし書いてる最中に感触や嗅覚まで関知しちゃうのか。もうある種の憑依体験だね⇒ 3年以上前 replyretweetfavorite