経済学は「お金」が苦手?
このたび、岡田斗司夫さんからお金の話をしろというお題をもらって、ぼくはいささかたじろいだのだった。というのも、お金というのはえらくめんどくさい代物だからだ。
今回ぼくにこんな話がまわってきたのは、多少なりとも経済学っぽい話をあちこちでしているせいだ。ぼくは経済学者じゃない。でも確かに経済学関連の本をたくさん訳している。ある程度は経済学をかじってはいるし、仕事(本業の開発援助)でも経済学の理論は使う。
でも……実は経済学というのは、あまりお金の話が得意じゃないのだ。
さて、こう言うと不思議に思う人もいるはず。経済学というのはまさにお金の話だと、多くの人が思っているからだ。経済学はお金しか見ない、人間の心がない、なんでもお金にしてしまう、もっと血の通った暖かい経済学を——こんな話はしょっちゅう聴かされる。
が、実はちがう。経済学は、実はお金をきちんと考えるのが苦手なのだ。
それが証拠に、まず日本の経済学者どもは、「お金」ってちゃんと言えないんだよ。マネーと言ってみたり、貨幣と言ってみたり、通貨と言ってみたりする。これすべて、たいがいは「お金」と言うのとまったく同じ意味だ。でもこの人たちは、お金というのが何だか素人くさくて幼稚だと思っているらしく、何か別の言い方をするとそれが立派になると思っているらしい。あるいは昔中国で、お金は卑しいものだから、それを指すのに「阿堵物(アトブツ)」と呼んだ人がいた。たぶんそれと同じ心理が働いているのかもしれない。同じことだけれど、自分たちがお金というものを扱いきれていないのが後ろめたくて、別の表現を無意識に探しているのかもしれない。
お金が面倒なのは、お金というのが交換を楽にするための媒介手段というだけでなく、価値をためこむ手段にもなっているからだ。お金があると、すべてを物々交換に頼らなくていいので楽だ。取引がスムーズになる。それは事実。でもその一方で、お金があることで、いろんな取引が途中でとまってしまう。魚からキャベツ、キャベツからお鍋、お鍋から散髪や人生相談という具合に、経済は次々に人がものやサービスを売ったり買ったりすることで成り立つ。たいがいのものは、ずっと抱え込んでおくのも面倒で、場所ふさぎで腐ったりもするし、なるべくさっさと処分して自分が必要とする別のものを手に入れたほうがいい。でもお金だけは——抱え込むのが楽で、場所も取らず、腐ったりもしない。すると、価値が取引の中でお金にずーっと貯まってしまうこともあり得る。だから、お金があること自体が取引を起こりにくくしてしまう面がある。
「お金」を成り立たせている約束はいい加減
世の中で、不景気が起こるのはそのせいだ。これは、史上最大の経済学者の一人、ジョン・メイナード・ケインズが20世紀初頭にきちんと示したことだった。でも、その後一部の経済学理論は、それを必死で否定する方向にも進み、不景気がお金とは関係なく起こるんだというのをしつこく証明しようとし続けている。そして、アベノミクス(の中の日本銀行による大規模緩和)に対しても、お金なんて関係ないんだ、だからあんなのダメだ、と言う人も多発している。経済学が専門だからといって、お金のことがわかるわけじゃない。むしろ経済学を勉強し過ぎていると、経済学とお金の変な愛憎関係にとらわれて、かえってお金が見えなくなってしまう場合も多い。
もちろん、この変な関係に気がついた人は多い。そしてそこから、お金というのがいかに変なものか、なぜそんなものが成り立つのか、という点をあれこれ考えてしまった人も多い。
でも……そういう人たちの多くが、これまたドツボにはまる。お金というのは「まあこの紙切れとか金属のかけらとかで、何か価値があらわされていることにしときましょう」という、かなりいい加減なお約束のもとに成り立っている。でも、お金を真面目かつ厳密に考えようとすると、そのいい加減さがあっさり踏みにじられ、そのとたんにお金が必要以上に異様なものになってしまう。
こういうのは、哲学者さんや、かなり思想的哲学的な指向をもった経済学者によく見られる。お金の本質とは何か、その根源的な意義とは何か——真剣にそれを考えようとした、本当に善意の、学問的良心に満ちた、生真面目な学者先生の議論を見ると、その熱意と真摯な取り組みは痛いほどわかる。でも、そのほぼすべてはまったくダメ。いやむしろ哲学的に、理念的に、精緻に、厳密に掘り下げて原理的に考えようというその生真面目なアプローチそのものが、お金についての考え方をゆがめてしまう。
「お金」は永遠の信用にもとづいている?
以前ぼくのブログにも書いたけれど、ちょっと誇張した例をあげよう。人がなぜ実用的な価値のまったくない紙切れなどのお金を受け取るかというと、ほかの人もそれを価値あるものと見なして受け取ってくれるからだ、という話になる。それがお金というものの本質(の1つ)だ。これはまったくその通り。
それは、いまだけの話じゃない。将来、次に自分が使うときにも人がそれを受け取ってくれると思わないと、その人はお金を受け取ってくれないだろう。これもその通り。が、ここらへんから厳密な話はだんだん怪しくなってくるのだ。その一例はたとえばこんな感じ……
でもその将来の人が受け取るのは、もっと将来の人がお金を受け取ってくれると思うからですよね?
→ はい、これはその通り。
これってどんどん続いていきますよね?
→ うん、まあ、そうだねえ。
するとつまり、果てしない先までお金が使えるという信用がないとお金って成立しませんよね? いまから56億7000万年後に、弥勒菩薩さんが降臨したときにもお金が受け取ってもらえると思わないと、56億6999万年後の人はお金を使えず、すると56億6998万年後の人もお金を使えず、ずーっとそれが続いて、今日の人もお金を使えず、ということになりますよね?
→ えっと、えーっと、それって……
でも理屈はそうですよね?
するとお金とはその永遠の信用に基づいたものであり、その永遠に先の信用が毀損された瞬間にそれがすべて現在にまで遡及してだれもお金を受け取らなくなりハイパーインフレが生じ貨幣が崩壊し資本主義が潰れ世界はカオスになり人類は滅亡しハルマゲドンがやってきて……あるいはその無限先まで見通せないが故にあらゆるお金の取引は決死の闇への跳躍でありそれが停まった瞬間に資本主義は潰れ世界は(以下同文)
→ おいおいおいおい、ちょっと待て待て待て待て。
死刑囚のパラドックス
いや、まじだよ。お金の哲学めいた話を扱った本って、すぐにハイパーインフレの心配ばかりはじめて、資本主義の崩壊だのというご大層な話になるんだ。
そしてもちろん、無限の彼方の信頼が基盤になっているというのはつまり超越的な何かってことで、つまりはお金というものが持つ神学的な基盤があって神がいないと経済も市場もあり得ずとか、本当に腐った話も出てくる。
さて、これは本当だろうか、とぼくなんかは思うわけだ。というのも、この話を聞いて思い出す、数学だか論理学だかのパラドックスがある。死刑囚のパラドックスとかいうんだっけな? 聞いたことがあると思うけれど、こんな具合だ。
あるところに死刑囚がいた。で、王様はその死刑囚に「来週お前を死刑にするが、お前はそれが何曜日になるか事前にはわからない」と言う(土日は休みとするね)。
さて、それを聞いて死刑囚は考えた。
もし王様が木曜まで死刑を執行しなければ、金曜に死刑になるのがその木曜の時点でオレにわかってしまう。事前には曜日がわからないはずだから、金曜の死刑はない。
じゃあ木曜の死刑は? 金曜があり得なくて、水曜までに死刑が執行されなければ、木曜しかないから事前にわかっちゃうな。すると木曜でもない。
同じ理屈を続けると、水曜でもない、火曜でもない。月曜でもない。すると……死刑は執行されないということか! そう思って死刑囚は大喜び。
すると木曜の朝に死刑執行人がやってきて「じゃこれからお前の首をちょん切るので」と言う。
死刑囚は「いや、そんなことはあり得ない」と言って、自分の理屈を説明した。が、執行人は「つまりお前、今日死刑になることは事前にわからなかったんだよな。予告通りだ」と言って刑場にそいつをひったてていきましたとさ。おしまい。
人が無限遠の将来の状況まで考えて、それが現在のお金の有用性を規定してしまう、ハイパーインフレだ資本主義崩壊だ、という発想は、この死刑囚の発想のまちがいに通じるものがある。王様は、そんな厳密なことは考えていなかった。「来週のどっか」と大ざっぱに思っていただけ。お金だって、根本はさっきも言ったように「じゃあそういうことにしとく」という雑な話だ。お金で取引が行われるためには、無限遠の保証なんかいらない。来週のどこかで取引は行われるだろう。それだけわかればいいのだ。唯一必要なのは、人間はこの先存在し続ける限り、何かを媒介に価値の交換を行う、という確信だ。いま手元にあるこの千円札は、ひょっとしたら30年後に使えなくなるかもしれないけれど、でもその頃にだって必 ずなんらかの形で価値の媒介があり、別のものでそれが担保されるようになっている。そしてその移行期には、千円札から次の何か——ビットコインでもツナ缶でもいいよ——に価値媒介の手段がハンドオーバーされるはず。それさえわかれば、別にはるか彼方の超越的な信用なんか想定しなくていい。
「お金」の根本に存在する楽観論
でも、お金の本質とか哲学とか、精緻な分析とか言っている論者のほとんどは、この無限遠までの話をこちゃこちゃ考える、ということだったりする。雑な本質に対し、つきつめられない、つきつめても意味のない厳密さをそこに持ち込もうとする。だって……精緻ってそういう意味だもの。そして、それがいまひとつうまくいかないと、なんだかお金に対してすごい悲観論を抱くようになってしまう。まさにそれこそが、お金の本質から話が乖離する原因になっていると思うのだ。でも、そんな悲観論は必要ない。お金の根本にあるいい加減さは、まさにそういう悲観論の対極にある、人間同士の信頼と楽観論のあらわれなんだから。
すると……経済学的な話もいまいち(それに、それをこんな対談でわかるように説明しろというのが無理筋)。哲学談義も、深遠に見えるけれど実は無内容で有害無益。世の中にはもちろん、お金儲けの話はあるけれど、そんなものをぼくに尋ねるのは、八百屋に魚を売れと言うに等しい馬鹿な行為。
それでも、お金は大事だ。そしてもっと大事なのは、お金というモノよりも、その背後にある価値とか取引とか交換と、その基礎になっているものであるはずだ。お金という変なものを眺めつつ、お金そのものにとらわれずに、その背後にあるもの、つまりは人間同士の価値のやりとりに関する信頼と楽観論に迫れたらちょっとはおもしろいかな、と思ったのだった。
特に岡田斗司夫は、かつて名著『ぼくたちの洗脳社会』(朝日新聞社、1995年)で、妄想を中心とした価値体系という変なことを考えた人だ。今回も必ずなにやら企みがあるはず。 そんなことを思いつつ、ぼくは岡田さんの事務所に赴いて——その結果は以下をごろうじろ。
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