終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
36歳の地図——国民的おもちゃになったタモリ 2
「女子アナブーム」の原点に立ち会ったタモリ
マンザイブームの起こった1980年、タモリは、新人歌手オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)の司会を、1971年の番組放送開始時からその役を務めてきた萩本欽一から、俳優の谷隼人とともに引き継いだ(~81年)。また、そのお笑い版である同局の『お笑いスター誕生!!』には審査員として出演した。赤塚不二夫とセットだったとはいえ、デビューからまだ5年経つか経たないかというタモリが、新人を審査する役を担ったことには驚かされる。それについては本人も折に触れて自嘲気味に語っている。同番組に出場した結成まもないとんねるずの2人が、タモリから「おまえら、何だかよくわかんないけど面白い」と言われたという話もよく知られるところだ。
これと前後してタモリは、1979年から始まったNHK総合の『ばらえてい テレビファソラシド』(~82年)にも、当初は単発で、やがてレギュラー出演するようになっていた。彼が「国民的おもちゃ」を名乗るきっかけとしては、NHKに出て、それまで以上に広い層に知られるようになったことも大きかったはずだ。
『テレビファソラシド』では、テレビ草創期から放送作家・タレントとして活躍していた永六輔が、構成とともにアシスタント役を務めた。当時ラジオのほうに重点を置いていた永にとってテレビ出演はこれが6年ぶりであったという。番組の司会進行を務めたのは、NHKアナウンサーの加賀美幸子と頼近美津子。頼近にとってはこれが初のレギュラー番組だった。
民放も含むテレビ界にあって、この番組が画期的だったのは、アナウンサーが淡々と番組を進めるのではなく、ときにはタモリたちとコントで共演したりして、そのなかで喜怒哀楽を表したことだった。これについて永は《ニュースに女性アナウンサーが登場する時代ですよ。アナウンサーにも、生き生きした人間味が出てきたっていいじゃないでしょうか。視聴者だって笑ったり、おこったり、泣いたり、こまったりしているアナウンサーの姿を見たって、決して悪く言わないはずです》と語っている(NHK「アカイさんノート」2014年1月24日)。
『テレビファソラシド』での加賀美と頼近の役割は、80年代以降のバラエティ番組における女子アナのそれを先取りするものだったともいえる。なお、番組内でタモリから「キャサリン」とミドルネームで呼ばれていた頼近は、その後フジテレビに引き抜かれ、1984年には同局の副社長だった鹿内春雄(のちフジサンケイグループ会議議長)と結婚する。女子アナブームに火をつけたのはフジテレビだが、それは頼近の移籍とけっして無関係ではないだろう。
永としては、アナウンサーとタモリを並べることで、いわば常識と非常識が同じ画面にいることの面白さや意味みたいなものが生まれるとの狙いがあったようだ。司会の加賀美もまた、多芸のタモリと、地道に仕事を重ねているアナウンサーとではそもそも土俵が違うのだから、無理して歩み寄らないほうが何やらおかしみが出てくるのではないかと考えながら番組にのぞんでいたという(『広告批評』1981年6月号)。
タモリからしても『テレビファソラシド』は、NHKらしからぬメチャクチャなバラエティをよくつくるなと感心していたらしい。後年、加賀美と対談で久々に再会したときには、同番組でとくに印象に残ったものとして、フラメンコダンサーの長嶺ヤス子と本場スペインから来たフラメンコ奏者たちがゲスト出演した回をあげている。そこではタモリがまずメチャクチャな歌詞でうたうと、パッと場面が切り替わり、ギター演奏に合わせてフラメンコの歌と踊りが始まった。その後も、タモリとフラメンコの場面を交互に流したところ、タモリと本場の歌手の区別がつかなかったのか、「いつまでタモリに歌わせているんだ」と抗議の電話が一件あったとか(『放送文化』2000年11月号)。
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