純化する魂と巨大な矛盾・森有正『遙かなノートル・ダム』1

今回のfinalventさんの書評連載は、cakesで「ハジの多い人生」「ハジの多い腐女子会」などの人気連載を持ち、先ごろ新刊『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)を上梓した岡田育さんの推薦による『遙かなノートル・ダム』評です。実は作者のフランス文学者・森有正にはfinalventさんも強い思い入れがあることを、7年も前にブログに綴っていました。森有正の何にそれほど惹かれたのか、そして本書が現代においても読まれるべき意義とは。
新しい生活、新しい古典 岡田育(編集者・文筆家、近著『嫁へ行くつもりじゃなかった』
 以前「森有正に傾倒していた」「自分の、森有正への傾倒には未だうまく整理がつかない。今でもこのブログに森有正のことは十分に書いていない」と書かれていたfinalvent先生に、今こそ森有正を総括していただきたい。というのが、私からのリクエスト。正確には、私を介した夫のオットー氏(仮名)からのリクエストです。
 結婚して一年半、夫婦それぞれの書棚から互いの蔵書を読み合う機会もありましたが、森有正に関してはずらりと揃った全集にたじろいでしまい、どこから手をつけたものやら今も途方に暮れています。かつてある種の若者に多大な影響を与えた「怪人」、あとにも先にも彼のような日本人は存在しない……と聞いても、1980年生まれの私には、正直ピンと来ないのです。
 「彼のことを知らない人でも、finalvent先生の書評を読めば、きっと興味を抱くはずだ」。必読であるはずの積ん読から逃げ回っている私が、今「新しい古典」という言葉からまず想起するのは、本連載の愛読者である夫のこの一言です。未読のものを推すという御無礼は承知の上で、是非『遙かなノートルダム』について書いていただければと思います。

まず、言葉を定義することを疑う

 1967年に出版された森有正の『遙かなノートル・ダム』の現代的な意義は、あまりにも明白であり、巻頭のエッセイ『霧の朝』にあからさまに書かれている。人は生きていれば誰でも「体験」は増えるのだから、日本人が戦争を体験して平和の尊さを知ったと語ることはアホウの所業でないのか。森は「体験はどんなアホウの中でも機械的に増大する」とまで言う。


遙かなノートル・ダム(角川文庫)

 日本国全体に対しても同じことが言える。平和憲法、たしかに結構である。しかしその成立に、体験的要素が余りにも多い(ことに日本の場合)ことを考えると、平和主義に対して一度懐疑的にならないのは、どうしても間違っていると思う。デカルトは真理であると思われることを一度、真剣に、徹底的に疑う勇気をもっていた。言いかえれば、自分を疑う勇気をもっていた。考えてみるがよい。中共は武装し、原子力までもつようになった。ソ連はいうまでもない。フランスまで原子力で武装をはじめた。非戦主義のインドがパキスタンに攻め込んだ。平和憲法に保障された日本で内心それらの国が自国よりすぐれた国だと思っている人がたくさんいる。ことに平和主義者にそれが多い。他方平和主義国であるはずの日本が民主主義的に選ばれた政府の手で米軍に基地を提供している。こういう苛烈な現実の中で、平和がどれだけ困難なものであるか、一度、平和そのものの根拠まで掘り下げ根本的に疑って出直さないと非常にあぶないのである。旅先で外国人から戦争抛棄をほめられて悦に入っているなど問題外の醜態である。(後略)

 2014年のノーベル平和賞候補の噂に日本の平和憲法が上がったとして喜ぶ人々の姿を見たとき、私の脳裏をよぎったのは森のこの言葉である。「戦争抛棄をほめられて悦に入っているなど問題外の醜態である」と。森はこう続ける。

憲法が戦争を抛棄したから急に平和が大切になるのはまったく逆で、法律などあってもなくても、平和が大切なのであり、敗戦があったろうがなかったろうが、平和は大切なのである。

 私たちは平和憲法を徹底的に疑う勇気をもってきただろうか。未だ1967年当時と変わらず平和憲法を懐疑することなく賛美しているだけなのではないだろうか。1967年の時代のまま竜宮城のように国際世界から隔絶された日本で浦島太郎のように老いに気がつく直前の姿ではないのか。

 他方、平和憲法の虚妄を見破り改憲すべきだという人もいるが、そういう人々こそ本当に根本的な思考を経験しただろうか。なぜなら、彼らの論理は結局、米国から押しつけられた憲法だからというくらいの薄っぺらい理屈でしかない。森の言う「法律などあってもなくても平和が大切だ」ということがわかっているとは到底思えない。根幹に平和の志向なくして平和憲法を疑うことはできないのである。

 平和憲法が大切なのではない。改憲が重要なのでもない。なにより平和が大切なのである。森が説いているのは、「私たちは戦争の悲惨を体験したので、平和の大切さがわかりました」というのはアホウだということだ。森はまた「平和が平和憲法の結果ではなく、その根源でなければならない」とも言う。では平和とは何なのか?

 森はしかし「平和」そのものをあえて焦点化して議論はしない。この焦点化を避ける森のありかたを自然に受け入れられるか拒絶するかで、彼への評価が変わる。ある人はいう、議論をするには定義が必要だ、と。しかし、森は常に言葉の定義そのものを疑うのである。その定義に触れるのを避けるかのように遠巻きに、まるで行き先を定めず物思いにふけて散策するかのように筆を進めていく。そのプロセスそのものが考えるということでもあるのだ。

「経験」とはどういうことか?
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「極東ブログ」で知られるブロガーのfinalventさん。時事問題や、料理のレシピなどジャンルを問わない様々な記事を書かれているが、その中でもとりわけ人気が高いのが書評記事。本連載は、時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名...もっと読む

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