一故人

赤瀬川原平—裁判が彼を「明るい顔」にした

ハイレッド・センター、模型千円札、論壇地図、路上観察、老人力、墓活……多岐にわたる活動で多くの人をうならせた、作家・アーティストの赤瀬川原平。その思考と行動は、どのような人柄とネットワークから生まれたのか、ライターの近藤正高さんが論じます。


いつもと反対の電車に乗ると旅になる

最近のテレビで、街行くサラリーマンに声をかけ、ふだん通勤で利用しているのとは逆方向の電車に乗って、ひととき旅気分を味わってもらうという番組があった。それを見て私はふと、美術家の赤瀬川原平(2014年10月26日没、77歳)が「尾辻克彦」のペンネームで書いた小説『父が消えた』を思い出した。それはこんな書き出しで始まっていたからだ。

《三鷹駅から東京発の電車に乗ると、ガタンといって電車が動いた。電車はどんどん動くので私は嬉しくなった。こんなこと、まったくいい歳をしてばかな話だけど……。でもいつもと反対の電車に乗ると、よくこういうことがある。(中略)電車はいつもの三鷹駅の固まった風景が、どんどんめくられて通り過ぎて行く。珍しいことである。電車というのは反対に向うとじつにどんどんと動くのだ》

さらに読み進めていくと《いつもと反対に動けば旅行ができる》という文も出てくる。1980年下半期(発表は翌年1月)の芥川賞を受賞したこの作品をはじめ、赤瀬川の小説は何気ない日常を描いているにもかかわらず、一味違った視点や比喩によって、新鮮な印象を読者に与える。それはまさに「いつもと反対の電車」に乗って車窓を眺めるような体験だ。いや、それは小説にかぎらず、赤瀬川の多岐におよぶ活動、作品すべてにいえることではないか。

1937年に横浜で生まれた赤瀬川は、以後、父の転勤にともない芦屋、門司、大分、名古屋と各地を転々とする。大分では4歳から高校に入るまでをすごし、高校入学後まもなく名古屋に移って、愛知県立旭丘高校の美術科に編入する。幼いころから絵を描くことを得意とし、高校卒業後は上京して武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)の油絵科に入学した。学校は病気のため中退し、一時名古屋に戻ったものの、1960年に再度上京、ここで大分の中学の先輩である吉村益信に誘われ、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加する。ネオ・ダダと略称されるこのグループには風倉匠、篠原有司男、さらに赤瀬川の高校の同級生である荒川修作などといった若手芸術家が集まり、街頭でパフォーマンスを行なった。

赤瀬川個人としても作品を制作し、ネオ・ダダのグループ展のほか、無審査の展覧会である読売アンデパンダンにも出品する。当初はこれまでどおり絵具を用いてキャンバスに描いていたのが、だんだん逸脱して、廃品類を使ってオブジェをつくることに没頭するようになった。「道端に棄てられて落ちているもの全部等価になる」と気づいたのもこのころだ。1963年には、同世代の美術家である高松次郎と中西夏之と新たなグループを結成、3人の苗字の頭文字である「高」「赤」「中」にちなんで「ハイレッド・センター」を名乗った。この時期も物への興味は続き、たとえば、扇風機やラジオなどを紙と縄で梱包し、物から本来の機能を失わせた「梱包芸術」作品を発表している。

そういえば、赤瀬川が芥川賞を受賞したとき、候補作の一つに田中康夫の『なんとなく、クリスタル』もあがっていた。デビュー作であるこの小説で、ファッションや流行の店などに関する注釈をちりばめた田中は、1980年代を通して、ブランド品だろうと思想書だろうと「すべての物は等価である」と主張し続けることになる。これに対し、20年も前から、日常で目にする物はすべて、ガラクタさえも等価だと気づいていた赤瀬川は、さらに過激な価値観の持ち主といえるかもしれない。こうした考えは、後年の路上観察なども含め、赤瀬川のすべての活動に貫かれている。

「暗い顔」から「明るい顔」へ

高度成長を経て貧富の差があまりなくなり、生活の均質化が進むと、とくに都市に住む人々は他人との違いを所有する物や住んでいる場所などに求めるようになる。『なんとなく、クリスタル』は、そんな現代人の寂しさ、虚しさを描いてもいる。同様のことをさらに戯画化して話題を呼んだのが、1984年にベストセラーとなった渡辺和博とタラコプロダクションの 『金魂巻』 きんこんかん だった。イラストレーターである渡辺は、同書において31の人気職業を「マル金」と「マルビ」、つまり金持ちと貧乏人に分類して、それぞれのライフスタイルの違いを図解してみせた。

渡辺は、赤瀬川が1970年から86年まで講師を務めていた美学校の教え子の一人である。学校を卒業してからも親交のあった渡辺によれば、赤瀬川には大きく分けて「1960年代の前衛芸術家」と「21世紀を解読する新思考?である老人力や優柔不断の師」と2つの時代、スタイルがあるという。そして、前者では暗い顔をしていた赤瀬川が、1970年前後を境に、明るい顔へと変わっていったと指摘している(『太陽』1999年9月号)。

そのきっかけは何だったのか。渡辺は、『朝日ジャーナル』連載の「櫻画報」(1970~71年)をはじめとするパロディジャーナリズムをあげているのだが、それ以前に赤瀬川の人生の転機として、「千円札裁判」は大きかったはずだ。

千円札裁判とは、1963年に赤瀬川が千円紙幣を模して印刷した「模型千円札」という一連の作品をめぐる裁判である。赤瀬川は翌64年に警視庁の摘発・取り調べを受け、65年には「通貨及証券模造取締法違反被疑事件」として起訴された。66年より始まった裁判では、美術評論家の瀧口修造や作家の澁澤龍彦などといった人たちが証言に立ったほか、“証拠品”として、かつてのハイレッド・センターの仲間たちによるパフォーマンスが法廷で披露されるなど、さながら現代美術の展覧会場の様相を呈した。

裁判は最高裁まで争われたものの、結局1970年、赤瀬川の有罪が確定する。それでも、この千円札裁判で彼が得たものは少なくない。たとえば、その前衛性ゆえマーケットとは無縁で、作家の住宅事情から保管がきわめて難しかった作品群が、裁判所に押収されて皮肉にも命脈を保つことになったこと。また裁判対策として始めた、おもちゃの紙幣など模造紙幣の収集は、やがてチラシや新聞広告や町のステッカーといった日常生活で見かけるさまざまな印刷物へ関心を広げさせ、マッチラベルの収集も派生した。赤瀬川のパロディジャーナリズムに大きな影響を与えた宮武外骨(明治~昭和期のジャーナリスト、文化史研究家)の出版物や、路上観察のお手本となった今和次郎・吉田謙吉の考現学も、印刷物収集のため古本屋通いをするなかで出会ったものだ。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

hachiya 読んでる。: 3年以上前 replyretweetfavorite

__tricatel @onigishi16 https://t.co/SUcq5Ik4za と http://t.co/WSVV0GTWIx の影響はなくもなく 3年以上前 replyretweetfavorite