ものぐさ精神分析(岸田秀)後編

「ワイングラスのむこう側」林伸次さんの推薦本『ものぐさ精神分析』評は後編です。ある世代の若者から、絶大なる支持を受けた本書。しかしfinalventさんは岸田秀がこの本を書いたのは「岸田自身の自我を維持するため」と看破します。その上で、本書を岸田が書いた意味とその価値を読み解きます。

現代にも通じてしまう岸田の論旨


ものぐさ精神分析(中公文庫)

 岸田秀は『ものぐさ精神分析』で読者の何を変えようとしているのか。一つは、人々が無意識に持つ普遍性によって抑圧され生み出されてしまう幻想についてである。岸田を真似て言うなら、それを口にしたら幻想を破られた人々が怒り出すようなことである。それが抑圧された事実であることが、人々の怒りによって保証されていると言ってもよい。

 この「人々」を日本人として限定するなら、彼の日本歴史観ができあがる。これが「日本近代を精神分析する―精神分裂病としての日本近代」であり、『ものぐさ精神分析』の巻頭に置かれている。これこそが彼の思想の具体的な帰結の一つであった。

 論旨は明快である。日本の近代化が米国を主とした西洋列強からのレイプであったということを、日本人が抑圧しているために、日本近代の奇妙な現象が起こるというのだ。これを彼はことさらに嫌悪を誘発する悪質な修辞を使い、わかりやすく示している。

日本は無理やりに開国を強制された。司馬遼太郎がどこかで日本はアメリカに強姦されたと言っていたが、まさに日本は無理やりに股を(港を)開かせられたのである。別な譬えを用いれば、苦労知らずのぼっちゃんが、いやな他人たちとつき合わなければ生きてゆけない状況に突然投げこまれたのである。それまでの状況とその状況との落差がひど過ぎた。それは日本とって耐えがたい屈辱であった。このペリー・ショックが日本を精神分裂病質にした病因的精神外傷であった。

 悪い冗談として読み飛ばしてもよさそうだが、この論が出された1975年には掲載が雑誌『現代思想』であったように、知識人にとってそれなりの説得力を有していた。1970年代から80年代くらいまでの知識人を筆頭に日本人が、そのような西洋に対する屈辱の心理を持っていたことの間接的な証しでもある。その後のバブルのいかれた日本賛美も、そのねじれた連続であった。たぶん、岸田は現在でもなお正しい。例えば、こうした記述はどうだろうか。

ヨーロッパ人は、当たり前のこととして、言わばおおらかに堂々と差別を行っていたが、日本人は、うしろめたさを覚えながらコソコソと隠微に朝鮮人を差別していた。つまり、朝鮮人は日本人にとって劣等な自己だったのである。欧米諸国に屈従する自己の劣等な部分を朝鮮人に投影し、本来は自己軽蔑であるところのものをふり向けたのである。それは、本来は自己軽蔑であるがゆえに、公然とは容認できなかった。うしろめたいものであった。そして、その対象である朝鮮人は日本人でなければならなかった。実際、朝鮮を植民地にする経済的、軍事的な必要性はあったかもしれながいが、朝鮮人を日本人にしなければならなかった理由は心理的なもの以外は考えられない。

 実証性のない与太話に聞こえる。そして雑誌『現代思想』に掲載されていても実際に与太話の随想を越えることはない。だが、同時代人としてのこの岸田の表明は1970年代の、戦争を知る世代のいる時代の知識人に、やはりある嫌悪をともなう真実として響いていた。なによりぞっとすることは、朝鮮併合でなぜ朝鮮人を日本人にしたのだろうか、という問いに現代日本人もおそらく上手に答えられないことだ。さらに現代では、そのこと—朝鮮併合でなぜ朝鮮人を日本人にしたのだろうか—が逆に、朝鮮人はそもそも日本人などになっていないかのように抑圧されようとしているのはなぜなのか? 岸田の偽悪的叙述に示される、歴史民族性の共同的な幻想に潜む抑圧は、残念ながら現代でもなお思想の射程を持つようだ。上のような問いになお、抑圧の欺瞞感覚なく答えることが難しいからである。

 だが繰り返すが、この抑圧の指摘は、実際上の社会問題や国際問題を解決することではない。個々人の自我や、それらの普遍的な部分での抑圧を洞察するというだけだ。この『ものぐさ精神分析』のこの毒は、ただ毒として理解されなければならない種類のものである。

母親に対する憎悪が意味するもの
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