一故人

土井たか子—阪神ファンの彼女が甲子園で実感したこと

学者から政治家へ転身し、日本社会党の委員長としてマドンナ旋風を起こした土井たか子。カラオケ、パチンコ、阪神タイガースをこよなく愛し、庶民派としてメディアにも多く登場した彼女は、いかなる人生を歩んだのか? ライターの近藤正高さんが、その軌跡を綴ります。


初当選時、誰もいない甲子園に立つ

文芸評論家の柄谷行人はかつて、日本でプロ野球が国民的スポーツとして定着したのは、野球そのものとは別に、何らかのメタファー(隠喩)として存在し始めたからだと書いた。その証拠に、《七〇年代のある時期には、たとえば、巨人=自民党、阪神=社会党、中日=民社党、ヤクルト=公明党、広島=共産党、大洋=新自由クラブ、さらにパ・リーグ=新左翼各派などの見立てが可能だった》と柄谷はいうのだ(柄谷行人「日本精神(病)野球の将来」)。

現実の球団と政党に相関関係があるわけではない。けれども、ある時期までのプロ野球と政治体制をあわせて知っていると、この見立てには妙な説得力を感じてしまう。とりわけ巨人=自民党、阪神=社会党という構図は、いわゆる1955年体制のもとでの両政党と両球団の力関係をよく表しているのではないか。1993年まで長期単独政権を維持した自民党と、「球界の盟主」と呼ばれ日本シリーズ9連覇も達成した巨人はたしかに似ている。片や、野党第一党でありながら政権を取りそうもなかった社会党と、巨人とともに伝統を誇る球団でありながら、なかなか優勝に手が届かなかった阪神もまた、かなり似たところがある。

もっとも、阪神は55年体制下では3回優勝している。1985年には球団史上初の日本シリーズ制覇も果たした。これに対し社会党は、阪神が日本一になった翌年、1986年7月の衆参同日選挙で衆院の議席を113から86へと減らし大敗を喫した。ときの社会党委員長の石橋政嗣は、その半年前に西欧型の社会民主主義への路線転換を宣言したばかりだった。この転換は、それまで社会主義イデオロギーに固執してきたのを、現実に対しもっと柔軟に対応していこうというものだったが、有権者にはその意図がなかなか伝わらなかったのだろう。むしろ社会党の変化は、総選挙の結果を受けて石橋が辞任したのち、替わって委員長となった土井たか子(2014年9月20日没、85歳)によって印象づけられたところが大きい。

神戸出身の土井は熱烈な阪神ファンとしても知られた。1969年12月の総選挙で初当選したときには、阪神の本拠地である甲子園球場で、誰もいないグラウンドに入れてもらっている。土井の選挙活動を私鉄総連(全国の私鉄関係の労働組合の連合体)が応援してくれた関係から、阪神電鉄の所有する同球場に御礼も兼ねて行ったところ、特別に入れてもらうことができたのだ。このとき6万9395票を得た土井は、マウンド上から四方八方を見渡しながら、この球場の満員時を上回る数の人たちが自分の名前を書いて投票してくれたのだと考え、事の重さを実感したという。

それから17年後に社会党委員長となってからは、阪神ファンでカラオケとパチンコの好きな気さくな「おたかさん」というイメージが、土井のセールスポイントとなった。だが、美術史家の若桑みどりは1989年の参院選で土井社会党が大躍進をしたとき、欧米の新聞や雑誌の伝える土井のイメージが、日本で伝えられるそれとは大きく違うことに気づいたという。

このとき若桑が滞在したイタリアの新聞や米『タイム』誌はそろって、土井が長身(168cmあった)で、日本のほかの男たちよりもすぐれたイメージを持っているとのコメントを載せた。『タイム』はそれに加えて、彼女が医者の娘であることを強調し、さらに《彼女が法律の教授であり、プロテスタントであること、また彼女が政界に入った動機がリンカーンの人権宣言への共感であることを重視して》いたという。「法律の教授」だったことなど一部事実誤認があるとはいえ、海外で伝えられたこうした土井のイメージは、なぜ日本国内でセールスポイントとしてとりあげられなかったのか。これについて若桑は、《彼女は日本の既成のできる女のもっているエリート意識、傲慢さ、特権意識、大衆との乖離というイメージを警戒したのであろう》と推測している(『imago』1990年1月号)。

いわれてみれば、土井には庶民派というイメージはあれども、「上から目線」の知識人というイメージはあまりない。彼女の全盛期を知る世代にも、土井がもともと憲法学の研究者であったことはあまり知られていないのではないか。ここであらためて彼女が政治家になるまでの軌跡をたどってみたい。

男性相手に「結婚したら、仕事を辞めますか?」と訊く

1928年、土井たか子は神戸市の町医者の次女として生まれた。本名は多賀子という。少女時代を日本が戦争に突き進むなかですごしたが、軍国教育を疑ったことはなく、むしろ兵隊に憧れを抱いていたという。それでも、小学校に入学したその日に、教室で男の子が隣りの席の少し足の不自由な女の子をいじめているのを見て、たまらず飛びかかるなど、正義感は幼い頃から強かったようだ。

戦時中に高等女学校に進学したものの、勤労動員に明け暮れる。1945年春には京都女子専門学校(現・京都女子大学)の外国語科に入学、終戦のラジオ放送は夏休みで帰省中に家族とともに聴いた。1949年に女子専門学校を卒業後は、新制大学への過渡的措置で認められていた編入試験を受けて、同志社大学法学部3年に編入する。弁護士をめざしての学部選択だったが、それは女子専門学校の3年生のときにたまたま『若き日のリンカーン』というアメリカ映画を見たことが大きな動機となっていた。ヘンリー・フォンダ演じる若き弁護士のリンカーンが、黒人の弁護を引き受け、さまざまな迫害やいやがらせを受けながらも、最後には裁判で勝つというその内容に、土井は涙を流して感動したという。また同じころには、同志社大学の当時の学長で、憲法学者の田畑忍の「平和主義と憲法9条」と題する講演を聴いていた。

《それまで国家に戦争はつきものという考えしかなかった私は戸惑ったが、しかしどんなことがあっても戦争だけはもう嫌だと強く思っている私の胸に、「政治家の気構えが肝心ですが、民主主義の中で国民の不断の努力こそ必要です」といわれた先生の言葉が強く残った》(土井たか子『せいいっぱい』

土井はこの2つのできごとをきっかけに弁護士を志し、同志社に進んだ。しかし司法試験を受けるために勉強しているうちに彼女の関心は、法律の解釈よりも、なぜその法律ができたのかという立法政策の問題のほうへと移っていく。それは司法試験の勉強からは外れており、教授たちからもこのままでは受験しても落ちると言われてしまう。そのうちに、あなたがいま関心を抱いている問題についてさらに追究したいのであれば、司法試験よりも大学院に行ったほうがいいと勧められた。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

abekeisuke1976 社会党委員長になるまでの経緯が非常に興味深い。→ 約4年前 replyretweetfavorite

the_kawagucci なぜそんなことを質問するのかと訊かれると「あなた方は、さっきから女性の受験者に対しては『結婚しても辞めないか子供ができても辞めないか』とばかり訊いているじゃないですか。女には訊いて男には訊かないってどういうわけですか?」と言い返した https://t.co/UTLveBVU14 約4年前 replyretweetfavorite

the_kawagucci 土井は人事委員として市職員の採用試験にも立ち会った。.男性の受験者たちに「もし採用されたら、結婚しても辞めませんか?」.さらに畳みかけるように「子供ができても辞めませんか?」と訊ねた。 https://t.co/UTLveBVU14 約4年前 replyretweetfavorite

donkou 明日から日本シリーズというわけで、阪神の話から書き出してみました。土井語録では「女がマドンナなら、男はオドンナですか!」というのが気に入りました。 約4年前 replyretweetfavorite