ものぐさ精神分析(岸田秀)前編

今回のfinalventさんの連載は、cakes連載「ワイングラスのむこう側」が人気の林伸次さん推薦による、岸田秀『ものぐさ精神分析』の書評です。80年代、日本で学生を中心に流行したニュー・アカデミズムの先駆となった書籍で、林さんも含め数多くの若者に影響を与えました。出版から40年近くたった今、本書をどのように読めばいいのでしょうか?
『ものぐさ精神分析』について 林伸次「ワイングラスのむこう側」
四国の田舎から東京の大学に入り、ロッキン・オン信奉者が集まる音楽サークルで楽しく話をしていると、みんながやたらと「それは幻想だよ」と言ってることに気がつきました。そして、しばらくして大学の生協の本売り場でずっと「ベスト1」になっている岸田秀の『ものぐさ精神分析』を手に取り「あ、これが元ネタだったんだ」と知り、急いで買って1日で読みました。次の日から僕もみんなと同じように、岸田秀という言葉は一切出さずに、熱く語る若者たちに向かって「それは幻想だよ」と言える側の人間になりました。しかし、やがてサークルの人間全員が『ものぐさ精神分析』を読んでしまうと、「それは幻想だよ」と言って相手をやり込めるのは無効になってしまいました。そして18歳の僕たちは「日本はアメリカに強姦されたんだ」という呪いだけを深く心に刻み付けることになりました。僕自身としては、その後大好きだったアメリカのポピュラー・ミュージックが聞けなくなり、当時大流行し始めたワールドミュージックという流れに飛び込んでしまい、ブラジルにまで行ってしまったのですが、結局、ブラジルを見るときも「アメリカ人の視線」を経由した「日本人の視線」だということに気がつき、愕然としました。『ものぐさ精神分析』が無効になる日はくるのでしょうか。

思想が持つ矛盾した仕組み

 岸田秀『ものぐさ精神分析』は1970年代半ばに書かれたエッセイだが、40年近く経った現在読んでも面白く、そしてなお毒のある書籍である。しかも毒は、その面白さそのものと分離しがたい。興に乗って読み進めるにつれ、その話に学問的な根拠があるのだと思い込みやすい。あるいは同意して、自分もそう考えていたのだという錯覚を生みやすい。毒が回った状態である。

 同書がよりどころとする精神分析学は、端的に言えば、疑似科学である。科学的な根拠はない。では、その創始たるフロイトと著者・岸田秀の妄想なのかと言えばそうでもない。では何か。それは奇妙な形の思想である。思想というもの本来の矛盾を、奇妙なほどに純粋な形で示している。

 思想は通常、それがどのように難しい形態を取っていても、内面の思考と外面の表明の間に差違を持ち、そこに矛盾を抱えている。およそ自身の内面に何か思索の対象を見い出すこと自体が、数学や物理学の課題が与えられるということとは異なる。

 この矛盾の原点を素朴な形で取り出すなら、「思想とは生きづらさの問題に暫定的な答えを与えること」になる。だが、その答えを出してもなお、問題は終わらない。矛盾は深まる。しかも外面的な思想の表明は、内面の思考の原点にあった、生きづらさをもたす元凶である共同体や社会への違和感への空しい叫びになる。なぜなのか。思想として自身の生きづらさに与えた解答は常に嘘であり、自分が自分を騙しているだけにすぎないからだ。

 思想をする人はその不安をいつも抱えている。そして自分が生み出したはずの思想がその人自身の人生を蝕み始めるのは、ふと不安な情感に駆られ、自分の思索全体を俯瞰したとき、それが自己欺瞞の構造をしていることに気がついて狂気に駆られることだ。思索を自己欺瞞のプロセスとして嫌悪感のなかで受け取ることは苦しみを伴う。

 思想の外的な表明自体、社会・共同性に対する怨恨による自己肯定という醜悪な欺瞞である。この背景のすべてに横たわっているのは、「抑圧」である。抑圧とは、意識の外部として存在する「無意識」による、意識への覆い隠しであり、自分自身が気づかず自分に嘘をついている状態である。自分には正しい本心や美しい純真があるのだと思い込みたい人ほど、実際にはそれに見合うだけの嘘を抱えている。抑圧は意識のなかではっきりと気づかれることはないが、不安や精神病理として粘るように思想に付きまとい、正義を装った執拗な他者攻撃に変わる。この問題は通常の「思想」なるものでは解消されない。自己を暴き出す特殊な思想が必要が必要になる。

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「極東ブログ」で知られるブロガーのfinalventさん。時事問題や、料理のレシピなどジャンルを問わない様々な記事を書かれているが、その中でもとりわけ人気が高いのが書評記事。本連載は、時が経つにつれ読まれる機会が減っている近代以降の名...もっと読む

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