映画館へ到着するまでの移動のとき、不良連中に見つからないかがいちばんの問題だった。なけなしの入場料を巻き上げられてしまうためだ。安全に映画館へ辿り着くには、なるべく誰も通らないような道を迂回する必要があった。お金はたいてい靴の中に隠した。同級生の友人に相談したところ、ダミーの財布を準備して数百円だけ入れておき、見つかったらそれを渡せば見逃してもらえるのではないかと教えてくれて、その周到な危機対策になるほどと感心したことを覚えている。もう30年ほど前の話だ。
実際には、所持金を取られた経験はほんの数度だったが、そこで感じた脅迫と暴力への不安は拭いがたく、中学生だった頃は、どこへ行くにもつねに怯えていた気がする。映画館の入場券売り場で、いきなり靴を脱ぎだす中学生を見て、売り場の人も不審におもったのではないか。
大学進学とともに東京で暮らし始めてようやく、それまで自分がいかに、日常生活で無意識の不安や緊張を強いられていたのかを知った。18歳になるまで絶えず感じていた「いきなり誰かがやってきて、自分に何かひどいことをするのではないか」という漠然とした不安から解放されたときには、驚くと同時に、ついにあたらしい場所での生活が始まったと胸が躍ったものだった。むろん、東京で完全な正義や公平が達成されているわけではないけれど、少なくとも所持金を靴の中に隠して歩く必要はなさそうだ。
『トゥルーマン・ショー』(’98)は、生まれた瞬間(正確には胎児だった頃)から、その人生がテレビ番組としてライブ中継され続けてきた男性の顛末を描いた作品である。何の変哲もない男性の日常に、番組の視聴者が熱狂しているというリアリティ・ショー的な価値観は、とりわけ90年代において広く共有されたものであったといえる。そのため本作は、同種のテーマを扱った映画『エドtv』(’99)や、テレビ番組の「電波少年」などと比較されがちだが、『トゥルーマン・ショー』は、自分の人生が演出されたものであることを本人が知らされていないという点で、それらとはいくぶん異なっている。『エドtv』や「電波少年」は、「人は誰でも15分有名になれる」*1というリアリティ・ショーならではの性質と強く結びついているが、『トゥルーマン・ショー』は決してその点に重心を置いていないことが見て取れる。
『トゥルーマン・ショー』の魅力は、「いまあなたのいる場所が世界の全てではない」という、より普遍性のあるテーマに迫っている点にある。主人公トゥルーマンの暮らしている世界は、セットと隠しカメラ、多数の俳優によって成り立ち、あらかじめ準備された脚本に沿って管理されながら進行していくが、当のトゥルーマンだけがその事実を知らされていない。万里の長城に匹敵する巨大なドーム型のセットは、完全に密閉された仮想世界となって、主人公を閉じ込めている。そこには人工の海があり、機械で制御された太陽が昇る。物語は、トゥルーマンが世界の成り立ちに疑問を呈し、新しい価値観を求めて外部への脱出を試みるまでの過程を描いていく。
すなわち、ここで『トゥルーマン・ショー』の比較対象となるのは、リアリティ・ショー的側面を持つ90年代文化というよりは、むしろ『25年目のキス』(’99)や『スタンド・バイ・ミー』(’86)、あるいは『マトリックス』(’99)のような映画作品であろう。「自分が知っている世界が、実はきわめて狭く限定されていると気づく」というテーマ性が、90年代的リアリティ・ショーと渾然一体となる着想において、『トゥルーマン・ショー』はユニークである。
「いまいる場所が世界の全てではない」と口でいうのはかんたんだが、よほど気をつけていないと、視野はひとりでに狭くなっていく。日々の行動範囲を超えた外側に広い世界がある、と想像することは難しいものだ。日常のルーティーンはあっという間に思考を浸食し、価値観を固定させてしまうためである。閉鎖的な環境で暮らす『トゥルーマン・ショー』の主人公が、外部への想像力を保ちつづけられたのは、かつて出会い、思いを寄せた女性が、いまはフィジーに住んでいるという手がかりがあったためだ。この、いっけん取るに足らない小さな情報が、結果的には彼を外部へと導く原動力となる。何かに憧れることが外部への逃走につながるというのは、これまた普遍的なテーマではないか。
自分自身に引き寄せていうなら、不良連中に金を巻き上げられる恐怖に怯えながら通った映画館には、目もくらむようなアメリカがあった。スクリーンの向こう側にある世界に憧れることが、外部への逃走につながったのだ。憧れに背中を押されて、『トゥルーマン・ショー』の主人公は脱出を試みることとなる。
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