一故人

山口淑子(李香蘭)—国籍・民族に翻弄された過去を乗り越えて

戦前には「中国人スター」李香蘭として活躍し、戦後は日本やアメリカなどで俳優として注目を集め、その後は政界にも進出した山口淑子。前半生で日中の関係に翻弄され、後半生では国境を飛び越えてアジアやアラブ諸国とのつながりも深めた彼女の激動の人生を今回の「一故人」は追います。


「中国人女優・李香蘭」をやめようと思った日

元女優で政治家としても活躍した山口淑子(2014年9月7日没、94歳)は、1920年に満州、現在の中国東北部に生まれた。両親ともに日本人で日本国籍を有しながら、戦前から戦中にかけて彼女が中国人女優「李香蘭」として、日本のつくりあげた傀儡国家「満州国」の国策映画に多数出演したことはよく知られている。

李香蘭はもともと少女時代に、父親の友人の李際春という中国人の養女となった際につけられた中国名である(香蘭の名は実父の俳号からとった)。養女といっても、中国の風習で友人と義兄弟の誓いを結ぶ際に子供を儀礼的にそうするというものにすぎない。彼女はまた、北京のミッションスクールに留学する際には、別の中国人から養女として迎えられ、 潘淑華 ハンシュウホウ という名前を与えられている。

北京の学校は中国人の生徒ばかりで、山口も中国人として勉学に勤しんだ。女優になってからも日本人だと悟られなかったのは、発する北京語があまりに自然だったからだ。李香蘭を初めて公に名乗ったのは、北京に移る前年の1933年、家族と住んでいた奉天(現・瀋陽)の放送局に、歌手として出演することになったときのこと。このとき芸名をどうするかという話になり、彼女のほうからこの名前を提案、局側もこれに応じ、放送ではあえて経歴の説明を省いて「歌は李香蘭」とだけ告げることにしたのだった。

北京に留学中も、帰省のたびに新曲を録音して出演が続けられた。これがやがて満州映画協会(満映)の耳に止まることになる。満映では、歌える中国人女優がいなくて困っていたところだった。こうして1938年にスカウトされ、映画デビューを果たすと、『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』の“大陸三部作”などに出演、またたく間にスターダムへとのしあがっていく。歌手としても1941年2月11日には、東京・有楽町の日劇で初の単独リサイタルを催した。このとき場内に入りきらないほどの人々が詰めかけ、劇場を7回り半もの列が取り巻く大騒動となった。これは「日劇7回り半事件」と呼ばれ、彼女の神話性をますます高めることになる。

しかし李香蘭は、やがて自分が日本人であることを公表したいと思うようになる。きっかけは、太平洋戦争中の1943年に上海で製作された、『萬世流芳』という19世紀のアヘン戦争を描いた映画に出演したことだった。その劇中、彼女が歌った「売糖歌」は中国全土で大ヒットする。それというのも、「アヘンをやめろ、中国の青年は立ち上がれ」という歌詞が、中国の人たちに日本軍への抵抗を鼓舞したものとも受け取られたからだ。

映画がヒットして、北京の中国人の記者クラブから会見の申し入れを受ける。彼女はそこで本当は日本人だと明かすつもりでいた。しかし父の友人でもあった記者クラブ会長からは固く止められた。「せっかく北京からスターが誕生して皆が喜んでいるのだから、夢を壊さないでほしい」というのが、その言い分だ。

当たりさわりのない質疑で会見が終わろうとしていたとき、一人の記者から「あなた中国人でしょう? それなのになぜ中国人を侮辱するような日本の映画に出るのか」と厳しい質問があがった。日本軍の支配力が強まっていた中国では思い切った発言であっただろう。これに対し、山口が「私が間違っていました。許してください」と謝罪を述べると、記者たちからワーッと拍手が起きたという。自分は日本人だと言うつもりで臨んだ会見なのに、とても言える状況ではなくなってしまったのだ。

その後、満映理事長の甘粕正彦を訪ねた彼女は、「もう李香蘭になりすますことはできない」と訴えて、その場で契約を破棄してもらった。だが、あと一本映画に出てから女優をやめようと思っているうちに敗戦を迎える。ついに彼女はきちんとした形で日本人であると名乗らないまま、日本に引揚げたのだった。上海から引揚げ船に乗る際、山口は「さよなら中国、さよなら李香蘭」と言って、その芸名と訣別したという。日本人としても、また“中国人女優・李香蘭”としても、中国大陸の侵略を続ける祖国・日本に抵抗するどころか、そのプロパガンダに一役買ってしまったことを、山口は終生悔やんだ。

のち、1970年代初めにフジテレビのワイドショー『3時のあなた』でイスラエルを取材に訪れたとき、山口はテルアビブの街で出会ったユダヤ人の青年にマイクを向けた。1948年のイスラエル建国後に生まれたその青年は、自分がシオニスト(ユダヤ民族主義者)だと認める一方で、シオニズム政権に対しては批判もしていると述べた。青年がそう明るく公言するのを聞いて、山口はホッとしたという。《「満州国」で政策を批判することなどまったく不可能だった経験を持っている私は、その青年の後ろ姿をたのもしいと思った》というのだ(山口淑子『誰も書かなかったアラブ』)。

なお、このイスラエル行きにあたっては、同国の要人にも取材を申し入れたもののすべて断られている。その前に、イスラエルと敵対していたパレスチナゲリラのメンバーなどを取材していたためだ。山口は『3時のあなた』でパレスチナ問題を中心に、アラブとイスラエルの対立を積極的にとりあげ、その後もパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長や、パレスチナゲリラと共同戦線を張っていた日本赤軍幹部の重信房子に独占インタビューを敢行している。ちなみに重信との関係は、彼女が帰国したのち逮捕されてからも続き、たびたび面会に足を運んでいたという。

親友にして生涯の恩人はユダヤ系ロシア人

後年、政治家となってからも、イスラエルと敵対関係にあるアラブを支持する日本・パレスチナ友好議員連盟の事務局長を務めたこともあり、山口はアラブ寄りと見られがちだ。しかし、彼女が芸能の道に進むきっかけをつくってくれたのはそもそも、満州時代の同い年の親友であるユダヤ系ロシア人の少女だった。

その少女、リューバ・モノソファ・グリーネッツは奉天のパン屋の娘だった。当時の奉天には、中国人・日本人・朝鮮人だけでなく、ロシア革命を逃れてきた白系ロシア人・トルコ系ロシア人・アルメニア人などが多数住んでいた。山口はリューバと、肺浸潤で商業学校を休学していた頃に出会った。このとき父は呼吸器を鍛えるため うたい を習うことを勧めたものの、子供だった彼女にはまったくなじめなかった。そこへ、クラシック歌曲を提案し、先生として帝政ロシアのオペラ座で活躍したソプラノ歌手を紹介してくれたのがリューバだった。

のちに抜群の歌唱力でスターとなったことを思えば意外な話だが、マダム・ポドレソフというその歌手の前で発声のテストを受けたとき、山口は緊張と気おくれで蚊の鳴くような声しか出せなかったという。あきれたマダムはリューバを呼び、奥で何やら話し合った。しばらくすると「来週からいらっしゃい」と告げられ、山口は安堵する。だが、じつはこのとき「あの子に教えても無駄よ」と言うマダムに、レッスンをしてくれるようリューバが必死に懇願してくれていたのである。その事実を山口はかなりあとになって知った。

レッスンに真面目に通い詰めた甲斐あって、山口は半年後、マダムのリサイタルの前座で歌う機会を与えられた。これがきっかけで奉天放送局に歌手としてスカウトされ、先述のとおりラジオに出演するようになる。その翌年の1934年には山口は、前出のミッションスクールに入学するため北京に移るのだが、リューバとは出発前にいま一度別れのあいさつに家まで訪ねて行った。しかし玄関のドアには板が打ちつけられ、壊された窓からはめちゃくちゃに荒らされた室内が見えた。親友は家族ともども忽然と姿を消してしまったのだ。

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

donkou 今週アップされた記事その1。ここに書いた以外にも、田中角栄との関係とかとりあげたかったなー。 4年弱前 replyretweetfavorite

changpian 新しい情報は特にないし、リューバの家は単なる「ユダヤ系ロシア人」ではなかったのだが。 4年弱前 replyretweetfavorite