『愛なんて嘘』白石一文(新潮社)
あらすじ:誰といても孤独なのは、結局、この世界が人々の裏切りで満ち満ちているから。結婚や恋愛に意味なんて、ない。けれどもまだ誰かといることを切望してしまう。正解のない人生ならば、私は私のやり方で、幸せをつかみとる。自己愛という究極の純愛を貫く六つの短編集。
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私には義務も責任もないし、しがらみも義理も何もないの。私はただ流れているだけで、いつ死んだってぜんぜんかまわない。悲しむ人もいなければ、気にする人だっていない。私が死んでも、この世界の何一つとして変わるものなんてない。
でもね、美緒ちゃん、私はこうしてちゃんと生きてるし、いろんなことを感じてるし、味わっているの。みんなには私がただ通り過ぎているだけのように見えるだろうけど、でもね、私は一歩一歩立ち止まって、ちゃんとこの世界を見てるの。
私がみんなとちがうのは、そうやって私が感じたり味わったりしたことを何かに書いたり、誰かに喋ったりしないってことだけ。
そんなことしちゃ駄目だって知ってるから。
ほんとはね、流れ去っているのはみんなの方なんだよ。この世界の方なんだよ。私は、生きてるあいだはずっと私でありつづけるの。そのために旅してるの。
私は、ひとりぼっちでいるとき、ときどき、あざやかに自分がいるって思う。
この世界に、自分だけがいるって……。
そういう感覚がすごい好きなの。ほんとに好き。死ぬほど好き。
美緒ちゃん。
一度、孤独の先の先まで行ってみるとね、行ったことのない人にはとても分からないような、ものすごい世界があるよ。
——『愛なんて嘘』75−76ページより
愛の成り立ちから、挑発的なタイトルへ
—— 『愛なんて嘘』すごくドキっとするタイトルですね。
白石一文(以下、白石) 最初は「偏愛」というタイトルだったんですよ。
—— どうしてそこから今のタイトルになったんですか?
白石 もともとは新潮社の文芸誌で、「偏愛」をテーマにいくつか短編を書いていたんです。他の収録作品もやはり「偏愛」のテーマで書いていたんですが、本にまとめるにあたって、タイトルは『愛なんて嘘』でどうですかと編集者から提案をされたんですよね。
—— 確かに、かつての恋人を探し続ける女性の話、離婚して再婚しても二人で添い遂げる約束をし続ける男女など、一般的な男女の恋愛からは少し偏ったというか、突き抜けた男女の関係が書かれているように思います。
白石 でも、「偏愛」というタイトルにこだわらなかったのは、そもそも愛情に偏ってないものなんてないから。愛というのはすべて自分なりの片側からのものですから、全部偏っているわけですよね。真っ直ぐな愛なんてものはどこにもない。
—— たしかにそうですね。
白石 親子愛でも家族愛でもそうですけど、特に男女の愛はそうですね。つまり、純愛と偏愛はそれほど区別がつかないわけです。
—— ええ。『愛なんて嘘』、「偏愛」からさらにひねったタイトルですよね。挑発的にも感じます。
白石 そうですね。“なんて”とついているので、愛なんてものは、あなた達が思っているような類のものはなくって、すべて嘘っぱちだよ、というふうにも取れますから。
—— 作中には、世間一般で真っ当とされる配偶者との愛から逸れたとしても、唯一無二の愛を探り続けた人々が描かれていたように思いました。逆に言えば、自らの愛さえも、唯一無二ではなく、嘘っぱちだと気づいてしまった人たちの物語というか。
白石 そうですね。ただ、仮にその愛に嘘や幻想があるとして、嘘で何が悪いのっていうことでもあるわけですよね。
白石 やはり愛の中でも、男女の愛。つまり、肉体関係を伴った感情のやりとりは、一番わかりやすいと思うんです。その愛情は、生殖を前提とした本能を核にしているわけですから。その分、社会的な人間の営みに落とし込まれた時には、右からみたら愛、左からみたら嘘ということが往々にしてある。
—— なるほど。
白石 つまり、愛と嘘は密接不可分な同質なものとも言えるわけです。
男女がつきあうということの原理とは
白石 人ははじめてセックスしたとき、無限の何かを感じると思うんです。なにか果てしないものがあると思うわけで、恋愛も、おおって感動する瞬間がある。そういう実感に、それらが永遠のもの、揺るぎないものだと誤解し、思い込んでしまうような入り口がある。
—— 「誤解」ですか?
白石 ぼく自身の話になってしまいますが、40代までは、男女において、セックスは絶対的なものだと思っていたんですよね。でも、50を過ぎた時にだんだんと興味がなくなってきた。直截に言えば、性欲が薄くなってきたんです(笑)。
—— そうなんですか。
白石 もちろん、それでも他の事柄に比べたら、優位ではあると思うんですよ。このつまらない人生を我々が生きていく上で、他に何があるんだ、と思うぐらいのパワーはあるんです。
—— ええ。
白石 ただ、最初はめくるめく遊園地のような感じに思えるかもしれないんですけれど、そのうち遊園地の広さもわかるし、ミッキーマウスと思っていたのが、どうも誰かが着ぐるみを着た偽物なんじゃないか、とかそのうち気づくと思うんですよね。
—— 限界に気づき始めるわけですね。
白石 入り口はすばらしいから、一生楽しめるとおもうんだけど、よく考えたらどのアトラクションもすべて一緒の構造だよね、といったことに気づく。愛情全体のにぎやかさ、美しさ、豊かさみたいなものが信じられなくなるわけです。
—— 「二人のプール」という作品でも、二人の関係に限界を感じ、いつか飽きてしまうと悟るエピソードがありますね。
白石 そうです。「二人のプール」の作中の登場人物は、「そんなはずはない。もう一回入り口にもどって、新たな気持でやろう」と考えてもがいていく。人はふとした瞬間に男女の愛の限界に気づきながらも、この悦びには限界なんてないと思い込みながら、思い込みという諦めの中で生きるんですよね。
—— 先ほど、愛が嘘でも構わない、とおっしゃってましたが、そうやって愛してるんだと思い込むこともできるわけですものね。
白石 そういうことです。男女の愛は、お酒やギャンブルとかと似ていて、依存性があって、ある種の強い実感があると思うんです。
—— 誰もが強烈な実感を得やすいものではありますよね。
白石 何かそれをやることによって、自分が生きているということの限界を超えられるんじゃないか、とか。恋愛も、ある種のそういった思い込みによって成立している。そうした強烈な陶酔感を圧倒的な触れ込みで保証しようとしているのが宗教でしょうね。
—— なるほど。
白石 年をとると、だんだんとそういうことが見えてくるわけです。結果、男女がつきあうということの原理的な部分に興味がでてきたんですよね。
—— 原理ですか。
白石 男女の恋愛に限って言えば、傷つきながらもつきあい続けるのは、「ひとりが嫌」なんだと思うんです。男女の関係によって互いがめいめい自分自身の孤独を癒やしている。
人間の人間たる所以が愛と孤独である
—— 今作で愛と対をなす大きなテーマが「孤独」ですよね。
白石 ええ。少し大きな話になりますが、なぜ人は寂しいと感じるかを突き詰めると、やはり人類の成り立ちの問題になるんですよね。
—— 人類の成り立ちですか。
白石 たとえば馬であれば、産まれた瞬間から立ち上がる。母乳は飲むけれど、それもわずかな期間で、あとはひとり立ちしますよね。
—— ええ。
白石 猫だって、雄が雌にちょちょちょっと寄っていって、性行為だけして、雄はどっかへいっちゃう。雌だけが、仔猫の面倒をみつづけるわけですよね。そういう生態系のシステムだってあるのに、人類はそうはしなかったんですよね。
—— 確かに、他の生物と比べると全然違いますね。
白石 人間は未成熟なまま生まれてきて、10年も20年も甘やかされて育つわけです。
—— 白石さんご自身は、孤独を感じるほうですか。
白石 ぼくはものすごく寂しがり屋なんです。それはもう深く反省しなくてはいけないくらい。
—— そうなんですか(笑)。
白石 「とうとう俺は、ひとりで居ることを知らぬ間に死ぬのかな」って、思うくらいに、ひとりでいるのが嫌すぎて、ひとりでいたことがない(笑)。双子に生まれて、親からも愛されて、寂しい思いをせずにずっと生きてきたんです。
—— 双子だと、ずっと同じ目線のパートナーがいますものね。
白石 そうなんです。ただ、ぼくは特別弱いんだけど、ほとんどの人だって相応に弱いと思うんです。だから、セックスをしていつかは子を為したい、生殖したいという本能は男性にも女性にもあるでしょ。絶対通らなきゃいけないその道があるから、その道を飾りたてて、自分の孤独を癒やそうと、脳みそもそういう風にできちゃっているんですよ。これは人類の輝かしくも哀しい歴史を見ても明らかです。
—— 孤独を癒やすために愛があると。
白石 人間の人間たる所以が愛と孤独なんですよね、今のところ、この世界のシステムに根ざす限りそうなんです。で、その愛と孤独を支えているものが何なのかということを考えたのがこの作品です。
—— 愛と孤独の原理ですね。
次回「愛情の源泉、“孤独を恐れる心”は人間の業である」、10/ 21更新予定
構成:中島洋一 写真:渡邊有紀
『愛なんて嘘』
白石一文(新潮社)
『翼』
白石一文(鉄筆文庫)