『うちの母ってヘンですか?』田房永子
あらすじ:毒母に育てられた13人の娘たち。それぞれの「重くて苦しい母から、私はこうして逃げました」エピソードを、母親との関係、自分の人生が苦しい人に贈ります。
*
戦後最大級の台風が関東に上陸―
通勤ラッシュ直撃でダイヤは乱れに乱れ、朝10時の有楽町駅前は人の数より、転がる複雑骨折のビニール傘の方が多かった。
「おはようございます、いらっしゃいませ!ただいま開店いたしました!」
いつもは開店と同時に、扉の前で待ち構えたお客様がワッとなだれ込む。
しかし今日は、ドワァーッと生暖かい風が吹き込み、平積みのHanakoの表紙が一斉にはためき、AERAがひっくり返って、ワンピースが転がった。
「閉めて閉めてー!」
新井さんがレジの方から駆け寄って、自動ドアの電源を切った。
「高橋くん、ここ封鎖しておいて」
「は、はい!」
「水上さーん、そっちも封鎖! 中川さーん、そこは手動にしてー!」
三省堂書店有楽町店は、なんとか開店した。台風が上陸する前に始発で出勤していた新井さんと、地下鉄チームのアルバイト3人だけが、開店時間に間に合ったのだ。
家が遠い店長は、昨夜から泊まり込みだった。今は事務所で、本部と連絡を取り、今後の対応を話し合っている。
僕はレジに入り、カバーを折る。文庫と新書のサイズは、あらかじめ折ってあるものが納品されるが、その他のサイズは、それぞれのサイズに折って用意しておかなければならない。しかし、開店と同時にレジに行列ができ、ハッと気づけば休憩時間の12時。その後もレジレジ、レジの合間に雑誌の付録付け、お問い合わせにラッピングにポイントカード入会にお取り寄せ注文に……と大忙しで、いつもカバー折りが間に合わない。
めずらしく余裕のあるこんな日は、大量生産のチャンスだ。
隣の水上さんは、POPをせっせと書いている。これも書店員の重要な仕事だが、勤務時間中に書き上げることはめったにない。レジに入りながら集中して書くのは、今日みたいな日以外は、現実的に無理だ。
中川さんは、吹き込んだ雨でお客様が滑らないように、モップを持って巡回している。
新井さんは、レジ内の電話で出版社に発注をしているようだ。お客様がほとんど来なくても、やることは山ほどある。
「はい、なんとか開店はしましたが……。はい、では注文をお願いします。田房永子さんの『父はしんどい』15冊お願いします。番線は……」
僕は隣の水上さんと顔を見合わせた。彼女も驚いたように目を見開いている。
「……えっ、私そんなこと言いました? 失礼いたしました。そうそう、『母はしんどい』です。15冊で」
あの新井さんが、自分が好きだと言っていた本のタイトルを言い間違えた。そりゃ嵐も来るってもんだ。
「だいじょうぶですか?」
電話を終えて、心なしか暗い顔をしている新井さんに声をかけた。
「うん、ちょっと今朝いろいろあってね」
何があったんだろう。しかし年下の自分からは聞けない。
「思ってることが出ちゃったみたい」
思ってること?
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