○屋根の建築が表現するもの
丹下の国立屋内総合競技場は、当時ワシントンハイツの米軍住宅が並んでいた代々木に建設された。これはアクロバティックな構造の実験にとどまらず、伝統的な建築との関係からも高く評価されている。実際、屋根の一部は、民家の棟や神社の千木(ちぎ)を想起させるだろう。
藤森照信は、こう指摘している。「全体に漂う造形感覚は、弥生と縄文が緊張感を保ったままバランスを取り、地に近いほど縄文性は深く、上昇するに従い弥生性が高まる。コンクリート造の壁の部分は……そのイメージは木造の縦格子からくる。具体的な形における伝統性は、屋根にきわまっている。……丹下の戦後の作品歴のなかでこれほどはっきり誰にでもわかるように伝統を刻印する屋根はなかった。大競技場の屋根に唐招提寺金堂を、小競技場に法隆寺夢殿を連想する古建築ファンがいても不思議はない」(『丹下健三』新建築社)。
代々木・国立屋内総合競技場[丹下健三]
かつて丹下は形態を抽象化して伝統性を組み込んだが、この屋内競技場では大屋根を用いた象徴的な表現を試みている。藤森は2つの大小の競技場の配置に対し、法隆寺の伽藍も重ねあわせた。また広島平和祈念資料館のように直接的には可視化されないが、明治神宮の本殿からの南北軸線を受け止める場所に競技場を配置したことも指摘されている。都市デザインを意識した丹下らしい考え方だろう。
興味深いことに、岸田が好まなかった屋根こそが、デザインの要になっている。むろん、それは古建築を直接的に模写した造形ではなく、現代的な構造技術によって実現したものだ。
本来、大きな運動施設は日本にないビルディングタイプだが、特徴的な大屋根を架けることで伝統との接続が可能となる。幻のオリンピックのときにはなかった発想だろう。丹下の作品ではないが、すでにゴルフ場から運動場に変貌していた駒沢オリンピック公園に建てられた施設群も、やや直線的だが、屋根の造形が特徴だった。
例えば、いずれも芦原義信による4枚のHPシェルを組み合わせた駒沢体育館と、五重塔を抽象化したかのようなオリンピック記念塔、花弁状のコンクリートが覆いかぶさる村田政真(まさちか)の陸上競技場、そして都オリンピック施設建設事務所による折れ曲がった屋根の屋内球技場である。川添登は、駒沢体育館の反った屋根を指して現代の伽藍のようだと述べたという。
(左)駒沢体育館/(右)オリンピック記念塔[芦原義信]
陸上競技場[村田政真]
山田守が設計した日本武道館は、1962年8月に国会で建設を決議し、63年7月の閣僚懇談会で敷地が決まる突貫工事のプロジェクトだった。これも天皇の還暦を記念してつくられる北の丸公園の森林になじむ造形ということで、富士山の裾野のカーブを意識した屋根のシルエットになっており、「和風建築美を生かした」と説明されている(日本電設工業会東京オリンピック施設資料編集委員会編『東京オリンピック施設の全貌』日本電設工業会、1964年)。
また武道は方位が重要であるため、八角形のプランを採用したが、その結果、導かれた宝形造の屋根は法隆寺の夢殿を連想させるだろう。屋根の上の擬宝珠(ぎぼし)は直接的な過去の造形の引用である。
こうしたデザインは建築界から批判を浴びたが、爆風スランプの楽曲「大きな玉ねぎの下で」でとりあげられたように、一般人が視認しやすいアイコン的な役割を果たした。
なお、東京オリンピックにあわせて開通した新幹線の車体のモノコック構造を垂直に立てた円筒が、山田による京都タワーである。これも1964年に登場し、京都の景観と調和するのかが議論となったが、彼は京都に新しい美を与えるものと反論した。
○日本らしさと象徴性
東京オリンピックの終了後、IOCから、東京都と日本オリンピック組織委員会、そして建築家としては特例だが、丹下にオリンピック・ディプロマ・オブ・メリット(特別功労賞)が贈られた。彼は1964年の国立屋内総合競技場と東京カテドラル・聖マリア大聖堂において、「私は『空間と象徴』という問題に取り組むことになった」と回想している(前掲『一本の鉛筆から』)。
IOCのブランデージ会長は、授賞式において、次のように丹下の建築を賞賛した。「スポーツが建築家を鼓舞し、一方多くの世界記録がこの競技場で生まれたことでも分かるように、この作品が選手たちの力をかきたてたと言えるのではないだろうか。この競技場は、幸いにも大会に参加できた人びと、また観戦することのできた美を愛する人びとの記憶の中に、はっきりと刻み込まれるであろう」。
当時の丹下は、現代建築が抽象化の挙句、意味を喪失したが、再びその意味を獲得し、人間と触れ合うべきだと考えていた(「空間と象徴」『新建築』1965年6月号)。とすれば、ブランデージの言葉は、彼にとって最高の賛辞になっただろう。
丹下は、文部省から提示された予算が不十分だったことから、田中角栄大蔵大臣に直談判し、次の言葉をもらったと回想している。「今回のオリンピックは、日本が初めて行う大きな国際的行事です。あまりみみっちいことをして下されるな。足りない分は私が考えましょう」。かくして建設費を増額してもらい、傑作は実現したが、代々木の敷地は隣にNHKの施設がたつなど、モニュメント的な建築に対して、まわりに都市計画的に十分な広さを確保できなかったことを彼は悔やんでいる(『建築文化』1965年1月号)。
丹下は1950年代には伝統に強い関心をもちながら、一方でそれに抵抗していたが、60年代にはあまり気にならなくなったという(「座談会」『現代日本建築家全集10』三一書房、1970年)。
それを踏まえると、次の発言は興味深い。「しかし外国からくる連中が、お前の屋内競技場はたいへん日本的だというんですよ。(笑)たいへんがっかりするわけです」。
むろん、本人が意識しなくとも、伝統研究が血肉化して、日本的なものが自然と発露したとも言えるかもしれない。少なくとも、1930年代の日本らしさをめぐる建築表現よりも、そのデザインは高いレベルに到達している。が、海外から見る日本建築の宿命という側面もあるだろう。実際、安藤忠雄や石上純也のような現代建築も、日本人にとっては必ずしも日本的に見えないようなデザインではあるが、西洋人からすると日本的に感じられることが少なくないからだ。
※次回掲載は2015年1月9日です。
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