日本建築論

国際社会への復帰をかけて。悲願・初の東京五輪!:第1章(3)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。だから、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになる。 本連載は、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

○プロデューサーとしての岸田日出刀

 幻の東京オリンピックから24年遅れて、1964年に東京オリンピックはようやく実現した。悲願の達成というだけではなく、敗戦した日本が国際社会に復帰する象徴的なイベントでもある。

 そして岸田、中山克己、高山英華らが施設特別委員となり、計画を審議し、1964年度の日本建築学会賞(作品)は初めて特別賞を設け、代々木と駒沢公園の総合企画に携わった彼らと各々の施設をデザインした建築家らに贈られることになった。

 こうした成功は、ベルリンの大会を視察し、代々木を会場に推薦していた岸田にとって感慨深いものだったと思われる。とりわけ、建築史の視点から重要なのは、これを契機に丹下健三(1913-2005)による国立代々木屋内総合競技場と付属体育館が誕生したことだろう。

 これは本人の記念碑的な作品であるだけではなく、日本の近代建築史にとってはもちろん、オリンピックの建築史においても傑作というべき作品である。そして丹下を設計者に推薦したのが、岸田だった。

 実は当初、建設省関東地方建設局営繕部の部長、角田栄が代々木の体育館のデザインをやりたがっていた(丹下健三+藤森照信『丹下健三』新建築社、2002年)。すでに建設省の営繕部は、1958年の第3回アジア大会のために、神宮外苑の旧競技場を解体し、5万7千人収容の国立競技場を設計していたが、このとき屋内水泳場を実現できなかったからだという。

 ちなみに、この国立競技場は機能的なプログラムを解いたものであり、歴史的にそれ以上の高い評価をされている建築ではない。外苑前は、すでに明治神宮の所有地ではなく、国有地だったが、国民の浄財で寄進されたエリアという理由で、新しい競技場のスタンドが景観を損なうことがないよう、明治神宮から要望が出されていた(前掲『国立競技場の100年』)。現在と同じく、当時も高さの制限をめぐる議論がなされ、8m程度に抑えられたのである。

 しかし、国立競技場は、当初からオリンピックのときには拡張することが予定されており、その後、実際にスタンドを7万2千人収容に改造し、中央部は高さは24m近くになった。さらに50mの照明用の鉄塔も2基建てられている。したがって、当時から、すでにこれが周辺環境に対して大き過ぎるという意見が出ていた。

国立代々木競技場第一体育館

 東京オリンピックの施設特別委員会委員長をつとめた岸田は、後世に残る施設が必要だと考え、「一流の人」丹下を強く推薦し、なんとか承認にこぎつけた。アジア大会どころか、ベルリン視察以来の念願をもっていた岸田は並々ならぬ情熱を注いだであろう。

 では、岸田と丹下はどのような関係だったのか。

 まず当時の岸田の立場を確認しよう。戦後すぐに彼は日本建築学会の会長に就任し、技術寄りだった学会をデザインの方に向かわせ、作品の学会賞の制定に奔走し、設計競技執行基準を決めた。コンペの審査委員を何度もつとめ、トラブルを経験したことや、オットー・ワグナーがコンペで1等をとりながら放置されて実現しなかったことに憤慨していたことも、コンペ制度を整える動議になったのだろう(「岸田日出刀」編集委員会編 『岸田日出刀 上・下』 相模書房、1972年)。モノをデザインするという目に見えるかたちではないが、岸田は建築界の改革者だった。


○師匠から丹下健三へのバトンタッチ

 もともと丹下健三が建築を志したのは、若き日にル・コルビュジエを知ったからだが、東京大学をめざした一因は、岸田だったのかもしれない。

 彼は高校時代から岸田の文をたびたび読んでおり、憧れの先生のもとで勉強するのは喜びだったと回想している(丹下健三『一本の鉛筆から』日本経済新聞社、1985年)。

 実際、岸田は「建築界の寺田寅彦」というべきエッセイストのような側面をもち、『文藝春秋』などの一般誌への寄稿やラジオの原稿を収録した多くの本を刊行し、建築外の人々の啓蒙に貢献した。「若いころから岸田は筆まめによく原稿を書いて」いたと彼の妻が述懐したように、20冊以上もの著作を残し、菊竹清訓は「最初の建築評論家」と位置づけている。

 また丹下は、こう述べている。「学生のころでしたが先生の『過去の構成』には非常に感銘をうけました。とくに大学の先生の室には先生のライカで撮られた御所の一連の写真が引伸ばされて、パネルに貼ってありましたが、わたしはその写真から強い影響をうけたように思います」。とくに岸田の写真集『過去の構成』(相模書房、1929年)は、過去の日本建築を彼が撮影し、「『モダーン』の極致」を発見する斬新な試みだった。

 堀口捨己は「『過去の構成』は非常にわれわれも感心しましたね。岸田さんはあのレンズを通して、面白いコンポジションを見る。ことに京都御所なんか、非常にうまく捉えて、僕は驚きましたね。—非常に啓発されました」と述べている。つまり、近代建築を連想させるような大胆な構図により過去を再構成し、古建築を生きた伝統に変えたのだ。後に丹下は写真家の石元泰博と『桂』(造形社、1960年)を刊行したが、屋根を切って古建築をモダニズム風に見せる特徴的な写真は、岸田の写真が斜めの線を排除し、軒の出を嫌い、水平線を強調したという証言に通じるだろう。

 当初、岸田は弟子の丹下をもてあましたらしいが、すぐにかわいがるようになる。丹下の有名なル・コルビュジエ論「MICHELANGELO頌」(1939)は、岸田が参加していた日本工作文化連盟の雑誌『現代建築』において発表の場を与えられた。また大学院の岸田ゼミに在籍していた丹下が1等をとり、その名が知られるようになった大東亜建設記念造営計画(1942)とバンコク日本文化会館(1943)のコンペは、いずれも岸田が審査員に名を連ねている。

 前者は神社を、後者は宮殿をモデルにしたデザインだったが、ともに岸田の好む日本建築のビルディングタイプである。寺院や城の屋根を採用する帝冠様式や国策ホテルの日本的な表現を嫌う岸田の考えに沿ったうえで、丹下の抜群の造形センスは、モダニズムと日本的なデザインを巧みに融和させた。

京都ホテル

 二人は実作品でも関わりをもつ。岸記念体育会館(1941)は、前川国男事務所の設計だが、丹下が担当し、顧問の「岸田博士の指導を仰ぎつつ」、誠実な構造の表現を追求したという(『新建築』1941年5月号)。社会事業会館(1941)は岸田+丹下の設計であり、本郷文教地区計画(1946)も両者が参加した。

 岸田はその才能を認め、積極的に仕事をまわした。図書印刷原町工場(1954)と清水市庁舎(1955)は岸田を顧問とし、丹下研究室が設計を行う。倉吉市庁舎(1957)は、同市の出身である岸田が一緒にやろうと誘い、連名で学会の作品賞を受賞している。倉敷市庁舎(1960)は、監修の岸田が指導した都市計画に従って建設が決定され、丹下研究室が設計した。もっとも岸田の正式な年譜の設計作品には、丹下絡みのものは記載されておらず、実質的には丹下研究室がやったものだろう。

 岸田コネクションの仕事は、岸田の晩年まで続く。それは丹下が岸田の期待に応えてきたからだろう。香川県庁舎(1959)では、帝冠様式とはまったく違う方法により、日本の伝統的建築を解釈し、丹下は木割りを連想させる柱と梁の立面構成を提示するが、岸田の高知県庁舎(1962)はこれを参考にしたかのようだ。

 なお、フィクサーとしての岸田は、丹下以外の建築家にも機会を与えている。例えば、東京オリンピックでは、清家清や菊竹らに、東名高速道路サービスエリア(1968)では、道路公団の顧問だった岸田の意見により、菊竹や黒川紀章らの若手建築家が設計を担当することになった。ジャーナリズムの川添登も、メディアを通じて丹下の売りだしに一役買ったが、岸田は発注者サイドから支援したのである。彼は生涯をかけて、丹下を中心とする日本モダニズムが生育する環境を整備した。


※次回『第1章 オリンピックとニッポンの建築(4)』掲載は12月19日です。



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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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koy__ 悲願達成――第1章 オリンピックとニッポンの建築(3)| これもあとで 約3年前 replyretweetfavorite