日本建築論

戦時下日本の夢想、そして迷走する会場計画:第1章(2)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。つまり、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになります。
この連載は、建築史・建築批評家の五十嵐太郎さんが、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

○日本から世界へという歴史の転換点

 こうした雰囲気は建築界にも認めることができる。すでに1930年代には国際的なデザインであるモダニズム受容の反動として、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)や軍人会館(現在の九段会館)など、近代的な鉄筋コンクリートの躯体の上に和風の屋根を即物的にのせる帝冠様式を通じて、日本のアイデンティティを求める表現が登場している。

 岸田はこうしたベタなデザインを嫌い、シンプルなモダニズムこそが日本の伝統建築に通じるという議論を展開していた。しかし、彼もナショナリズムに関心をもっていたという点では共通している。いや、記号的に屋根さえのせればよいというレベルではなく、ファナティックなまでに神社建築の美を賞賛したように、もっと精神的な意味において彼は日本的なものをモダニズムに求めていた。

・(左)東京帝室博物館(現・東京国立博物館)/(右)軍人会館(現・九段会館)

 東大教授の藤島亥治郎(がいじろう)は建築史家として大きな物語を構想し、1940年を歴史的な転換点とみなして特別な意味を与えた(『民族と建築』力書房、1944年)。

 まず2600年の日本建築を大きく三期に分けて、第一期は外国の影響がなく、独自の個性を発揮した「純正日本建築時代」、第二期は中国の強い影響を受けながら、それらを消化した「大陸的日本建築時代」、第三期は欧米の先進国の様式と技術を受容した「世界的日本建築時代」とみなす。

 ただし、現代建築が求める合目的性、機能性、「明快簡単」は、もともと日本の伝統建築が変わることなく、ずっともっていた性質だという。そして彼によれば、今や「新時代の、将来の、日本建築を創成しつゝある……建築界は紀元二千六百年代に一歩を踏み出し、歴史的な非常時局に世界的な指導的活躍を始めた」。

 藤島は現状を整理して、こう述べる。「今一つ大きな仕事があると思ふ。それは何かといふと日本建築のよさを世界に示すことである」。オリンピックを通じて、日本の精神を喧伝するのと同型の思考だろう。そして「日本建築は実に二千六百年を一貫して、世界に比類ない合理性と、建築美とを発揮して来たのである」。

 すなわち、世界との比較において、日本建築の素晴らしさが語られるのだ。「大陸へ、南方へ、欧米へと建築文化の手を伸ばすとともに、新世代の日本建築に新しい精神を吹き込む大使命を負ふのである」。つまり、これまでは移入するばかりだったが、新世紀を迎え、これからは逆に日本から世界に影響を与えるというのだ。気持ちの高ぶりを感じる文章である。

 なるほど、21世紀の現在、SANAAや伊東豊雄など、日本は世界的な建築家を輩出するようになった。ある意味で予言は当たったのかもしれない。だが、それを戦時下で夢想していたのである。


○迷走する会場計画

 ところで、前述したベルリンのIOC総会では、月島の会場案ではなく、神宮外苑の陸上競技場を拡張して、12万人収容のメインスタジアムにする計画案が提示された。さらに外苑の水泳場や相撲場にも改造が施される予定だった。

 そもそも古代から巨大な闘技場を建設したヨーロッパと違い、日本では歴史的に類似のビルディングタイプがない。おそらくナショナリズムが高揚した1930年代であっても、スタジアムには日本らしさよりも、まずは収容人数を満たすという機能の充足が求められた。

 また仮に和風を意識したとしても、当時のモダニズムは運動施設に大屋根を架ける技術が発達していない。また近代スポーツが日本に導入されてから、それほど歴史がたっていないうえに、開催決定からオリンピックまで、準備期間はわずか4年である。

 スタジアムの現状と計画手法をまとめた先駆的な著作、牧野正己の『競技場建築』(丸善、1932年)では、オリンピックなど、海外の施設を挙げた後、こう記した。「我が明治神宮外苑の各種競技場のグループも此等世界的施設の第一列に加へられるものであらう。大正時代に入つて運動競技場は校庭から市民一般層に進出し、神宮外苑は之が先鞭となり代表的な水準を示してゐる」。既存施設を活用して、急いでオリンピックのための大きな会場を用意するとなれば、ここしかなかった。

 実際、1924年にオープンした神宮外苑の競技場は、日本初の大規模なスタジアムだった。国家的なイベントとして、大正時代に明治神宮が建設され、新しい伝統を創造し、これに関連する外苑において絵画館や近代的なスポーツの施設群が誕生する。また1926年には野球場も竣工し、早慶戦を昭和天皇とともに観覧した秩父宮雍仁殿下から「球場を増築してはどうか」という言葉をもらい、高さのある建造物に反対していた明治神宮も抗しきれず、スタンドの拡張を許可する(後藤健生『国立競技場の100年』ミネルヴァ書房、2013年)。

 ラトゥールIOC会長も、来日したときは神宮の競技場に案内されていた。紀元2600年のイベントとしては、明治神宮とオリンピックを結びつける考えはありうるだろう。

 しかしながら、内務省神社局は、明治天皇の聖地の風致を乱すことは認められないという理由から、外苑施設の改築を反対する。大日本体育協会や競技場調査小委員会の岸田らは、代々木の陸軍練兵場も候補地と考えていたが、この案も軍が許可しない。

 最終的に駒沢のゴルフ場が候補地となった。計画によれば、巨大なメインスタジアムは62000席と仮設スタンド48000席、水泳競技場は3万人のスタンドをもち、両施設に挟まれた7500坪の紀元2600年記念広場の中心軸には記念塔がたつ(橋爪紳也『あったかもしれない日本』紀伊國屋書店、2005年)。いずれも屋根はない。もっとも、基本的な配置の構成は、戦後の東京オリンピックの駒沢会場をほうふつさせるだろう。

 だが、戦争が激しくなり、1937年に公布された鉄の資材統制を受けて、競技場の一部を木造にすることも検討された。また前述したオリンピック村の最終案は、木造下見板張り、鉄板屋根の宿舎を平行配置するシンプルなものである(片木篤『オリンピック・シティ東京1940-1964』河出書房新社、2010年)。

 積極的に建築をプロパガンダに利用したドイツのナチスやイタリアのファシスト党とは違い、日本の政治や軍部は、建築を無駄なものとして切り捨てる。それゆえ、ドイツにおけるアルベルト・シュペーアのような戦犯の建築家も生みださないのだが。やがて経済的にも国際関係的にも、東京オリンピックの実現は立ちいかなくなってしまう。


※次回『第1章 オリンピックとニッポンの建築(3)』掲載は12月5日です。



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この連載について

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日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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