日本建築論

世界に発信せよ!オリンピック大會という国家事業:第1章(1)

20世紀以降の日本建築には、「日本という国への意識」が脈々と流れています。つまり、日本の建築を見れば、「日本とは何か」「日本的なるものとは何か」という問いに対峙することになります。
この連載は、建築史・建築批評家の五十嵐太郎さんが、伊勢神宮、国会議事堂、桂離宮、日光東照宮など、シンボリックな有名建築をとりあげ、それらを巡って重ねられてきた議論を追います。日本のナショナリズムとモダニズムの相克が、いま蘇る!

 日本と建築の関係について考えたいと思う。もっとも、これまでに多くの日本建築論が書かれている。例えば、伊勢神宮や桂離宮などの研究、あるいは日本的な概念をめぐる論考だ。だが、ここでは現代のトピックを起点とし、過去の出来事を連鎖させて、まずは手探りだけれども、その作業に着手したいと思う。

 むろん、先端的な建築家が伝統論争を活発に語り、モダニズムと歴史建築が地続きの意識をもっていた20世紀の半ばと違い、現代の建築界では、少なくとも表面上は決して日本的なるものへの関心が大きいとは言えない。

 では、日本らしさや日本的なものへの興味は果然に消えてしまったのだろうか。

 一般社会を見渡すと、中国や韓国への反発から過剰に日本の優位性や正しさを語る言説が増殖し、戦後レジームからの脱却という名目で、この70年間に培ってきた基盤が崩され、敗戦前の精神が復活しようとしている。現代建築が直接これを意識しているわけではない。しかし、日本的なものを必要以上に意識しなくてもよいのは、ある意味で平和な時代の証なのかもしれないが、今やその前提も変わろうとしている。

 したがって、オリンピック、万博、神社、宮殿、国会議事堂などを契機として、現在と過去の事象を往復しつつ、日本建築論を改めて考えたい。初回は、注目の話題でもあるオリンピックをとりあげよう。


○「オリンピック大會」を東京へ!

 現在、東京オリンピック2020の新国立競技場をめぐって、そのデザインが神宮外苑という環境にふさわしいのかという議論が盛んである。

 日本において初めてオリンピックの施設が意識されたのは、おそらく1930年代にさかのぼるだろう。1940年に東京オリンピックを開催する予定だったからだ。

 そこで今からおよそ80年前にさかのぼろう。1936年、建築家の岸田日出刀(1899-1966)は、文部省や大日本体育藝術協会から委嘱され、ベルリン・オリンピックの会場を視察し、各種の施設を調査した。同年7月、ベルリンで行なわれたIOC総会にて、東京はヘルシンキを破り、第十二回オリンピックの開催地に決まっていた。これを受けて、日本では花火や音楽会などの祝賀会が催され盛り上がっていたが、彼は東京オリンピックの施設を構想する重要な人物だった。

 岸田とは何者なのか。

 彼は、1920年に東大を卒業すると、営繕課の技師として安田講堂(1925)の設計を担当し、1925年に東大助教授となり、1959年に定年退官するまでデザイン教育を実践した人物である。卒業設計の監獄(1922)や安田講堂など、最初は表現主義の影響を受け、教職に就いてからも設計を続け、東大の各施設、生長の家本部(1950)、和風のニューヨーク世界博の日本館(1939)や西本願寺津村別院(1960)、モダニズムの富士銀行数寄屋橋支店(1957)、そしてゴルフ好きが高じて湯河原カンツリー倶楽部のコースとクラブハウス(1956)などを手がけた。

 ただし、彼はいわゆる設計者としてよりも、多くの洋書を読み、四度の洋行を経験した随筆家であり、各種の役職や委員会を通じて、モダニズムを推進し、それを広く普及させたプロデューサーとして活躍した。

 オリンピックの施設調査員だった岸田は、1940年に開催予定の東京大会が敷地の確保に苦労しているのに比べて、ベルリンの会場が十分な広さをもっていることを実感し、「成功の大半は競技場の敷地の選定が宜しきを得、従つてあらゆる競技に対する諸施設がすべて具合よく行つたといふ点に負ふところが多い」と述べている(岸田「オリンピック大會と競技場」1937年2月/『甍』相模書房、1937年)。また壮大な開会式に感激しつつ、ナチスがプロパガンダに活用した巨大な広場に興味を示し、東京大会でも広場の建設は、スポーツと体育国策との融合をはかるうえで必要であり、「更に国家的な式典や軍部方面に於ける適当な利用法も充分効果的に考へられる」という。

 もっとも彼は、ナチスの建築のギリシアに連なる古典主義を意識し反モダニズム的なテイストを志向した競技場のデザインは好まず、鈍重であると批判している。なるほど、岸田は、ナチスの政権下でドイツに居づらくなり、1930年代の前半、日本に滞在したモダニズムの建築家ブルーノ・タウトの感性に近い。したがって、彼はオリンピックの施設を誰が設計すべきかを問い、「スポーツ的精神」を表現するデザインとして、「質実・明快・単純・速力の如き要素」を挙げて、逆に「華美・陰鬱・錯雑・鈍重」は避けるべきだと記している。

 また1924年のパリ大会から始まった藝術競技に触れて、自分は「ナチス独逸の建築に対する態度なり政策に対しては大きな不快を感ずる」と述べつつも、建築は藝術の母であるというゲッペルスの挨拶文には同意し、「スポーツと建築との間のこの緊密な関係をよく我々は理解して、来るべき東京大会の藝術競技を盛大に意義あるものにしたい」という(「オリンピック大會と藝術競技」1937年3月/前掲書)。


○富士山麓のオリンピック村

 東京オリンピックの開催決定を受けて、1936年8月にドイツのメディアが掲載した建築の図版に、岸田は当惑している。それは「富士山麓のオリンピック村」という記事だった。

 驚くべきことに、村の表門が日光東照宮の陽明門、集会所が名古屋城の天守閣、選手宿舎は京都醍醐寺三宝院、練習用の水泳場が遠くに富士山が見える厳島神社になっている。いずれも唐破風、入母屋、千鳥破風などの曲線的な屋根が目立つが、さすがに大きな寺院を競技場にするようなイラストはなかった。

・ドイツのメディアが掲載した「富士山麓のオリンピック村」:富士山がみえる厳島神社の練習水泳場

・ドイツのメディアが掲載した「富士山麓のオリンピック村」:(左より)名古屋城天守閣の集会所/京都醍醐寺三宝院の宿舎/日光東照宮陽明門の表門

 西洋人の無邪気なオリエンタリズムによる日本テーマパークと言ってしまえば、それまでだが、アジア初のオリンピックがドイツ人に対して喚起したイメージとして興味深い。

 岸田は「かうした夢を抱いて日本を訪れる世界の人達を失望させたくはないが、日本にとつておきの名所をみんなオリンピックの村とくつつけて考へられては一寸こまる」と述べている。せっかくタウトが近代建築家の視点から装飾過多な日光東照宮を批判して、シンプルな伊勢や桂離宮を評価したのに対し、やはり一般のイメージは変わらないことを苦々しく思ったかもしれない。


○外国人が泊まる宿—国策ホテル

 またオリンピックでは、多くの外国人が訪れることから宿舎の問題が発生する。これに対しても、岸田は日本風旅館の便所や浴室など、一部を改造すれば間に合うという見解を述べ、わざわざ洋風ホテルを新築しなくてもいいという。

 ちなみに、1930年代の半ばは外貨を稼ぐべく、国策によって入母屋や唐破風の屋根がある琵琶湖ホテル、千鳥破風などが付く城郭風の蒲郡ホテル、宝形屋根の2つの塔屋をもつ富士ビューホテルなどの新設が盛んであり、1936年には入母屋の塔を中央に掲げる川奈観光ホテル(現在の川奈ホテル)も完成した。

 こうしたホテルの多くは和風屋根の外観だが、内部は外国人を意識したインテリアだった。前述したオリンピック村のイメージは、これと同系統であり、いわば日本側もオリエンタリズムを積極的に商品化していた。

 建築史家の太田博太郎は、以下のように説明していた。「屋根の美しさは、……日本建築の特徴である。同じ木造でも、西洋の建築には、このやうな大きな、軒の出の深い屋根を用ゐることがなく、屋根の美しさを主とした建築はない」(『日本建築史序説』彰国社、1947年)。

 なるほど、西洋の古建築と比べて、日本の古建築は屋根のヴォリュームが大きい。素人目にもわかりやすい部位である。ゆえに観光客の誘致を考えると、屋根はもっとも記号化しやすいデザインになるだろう。

 だが、日本と西洋の建築をよく知っている岸田は、おそらく小手先の和風屋根の意匠による国策ホテルが増える傾向を嫌っていたのだろう。彼によれば、ベルリンもホテルを新築しておらず、大会後を考えれば、日本もわずかな期間のためだけに、西洋風ホテルをむやみにつくるべきではない。そして、こう述べている。

 「外国人にして見ても、日本風座敷の妙味は充分よく理解できるであらうし、むしろかうした機会に日本風住居が如何に日本の風土に適したものであるかを理解させるようにしたいものだ」(「オリンピック閑談」1936年11月/前掲『甍』)。

 現在のように交通やメディアが発達していない時代において、日本が海外できちんと理解されていないのは当然だが、やはりオリンピックは、日本的なものを世界に向けて知らしめる絶好の機会になるだろう。

○紀元2600年の国家事業

 ここでいったん、1940年の東京オリンピックがどのように決定したかを振り返ろう。関東大震災の7年後、帝都復興祭を盛大に開催した東京において、オリンピックを誘致する計画がもちあがった。当初、スポーツ界は消極的だったが、やがて運動は勢いを増し、同じくオリンピックを考えていたイタリアのムッソリーニや、ドイツの協力もとりつけ、日本開催の決定へと至る。

 1940年は東京オリンピックと日本万博を同時に行なう予定となったが、過去に類例がなかったわけではない。1900年のパリや1904年のセントルイスでも、万博とオリンピックが一緒に開催されている。

 同時中継のメディアの登場によって、万博よりもオリンピックの方が圧倒的に影響力をもつようになった現在からは想像しにくいが、当時のオリンピックは、クーベルタンの努力によって第一回のギリシア大会は成功したものの、他国での開催はまだ簡単ではなく、むしろ万博に付属するイベント的な扱いだった。したがって、オリンピックが独り立ちできるようになるまでのIOC側の苦い記憶を配慮し、震災後の都市計画に伴う月島の埋立地にて万博とオリンピックの会場を設ける当初の案を変更している。むろん、風の影響や地盤の問題も懸念されていた。

 ある意味19世紀の国際社会において日本は海外の万博でデビューし、それを今度は日本で開催した。オリンピックにも1912年のストックホルムから日本は参加していた。いずれもこちらから出かけていたのが、今度は出迎えるホスト側になる。

 しかし、日本の場合、パリやセントルイスの同時開催と違い、1940年は紀元2600年という歴史的な節目にあたる国家的な事業という大きな意味をもつ。この年、聖蹟観光や百貨店の催事から各種の大会まで、神武天皇からの万世一系を祝う、大日本帝国の紀元2600年記念行事が数多く執り行われ、国民的な一体感を高揚させることになった。

 ならば、世界中から観光客が押し寄せる万博とオリンピックは、最大級の目玉イベントになるだろう。したがって、オリンピックの誘致活動は、震災復興を指揮した東京市長の永田秀次郎が最初に構想したものだったが、途中から国会の議題となり、国民的な運動へとシフトしていく。結果的に戦局が激しくなり、1938年には万博とオリンピックの開催を返上することになったが、ケネス・ルオフの研究『紀元二千六百年』(朝日選書、2010年)は、それでも日本は消費と観光で大いににぎわっていたことを指摘している。

 東京開催が決定して一ヶ月後、文相の平生釟三郎は、ラジオ放送において、以下のような「国民の覚悟」を挙げた(橋本一夫『幻の東京オリンピック』講談社学術文庫、2014年)。「日本全国民が確固不抜の日本国観念と、光輝ある武士道精神とを益々明徹せしめ以て、世界の列強間に於ける日本の正しい地位を認識すること」、「我が尊き伝統たる武士道の精華は、国民全部が一人残らず、克く己を捨てゝ皇国のために犠牲となることを以て本来の面目とするもので、この精神により、全世界十七億の指導国民の一たる日本人の徳風の大成向上に留意すること」などである。

 陸軍の梅津美治郎(よしじろう)も、スポーツ精神にあふれた国際的なイベントではなく、「日本精神の精華を世界に知らしめるように努力することが最も大切だと思う」という意向を示した。しかし、こうした内向きの挙国一致の体制は、政治的な中立をうたうオリンピック精神に反するとして、海外から批判される。


※次回『第1章 オリンピックとニッポンの建築(2)』掲載は11月21日です。



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この連載について

日本建築論

五十嵐太郎

明治以降、とりわけ20世紀の日本建築論の底流には、「日本という国への意識」というものが逃れようもなく響いています。そうした中から、実際に形をとって立ち上がってくるのが、日本の近代建築であり、それによって覆い尽くされているのが日本の都市...もっと読む

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コメント

mikeneko301 日刊建設通信新聞社にいた頃、連載を書かれていたのが五十嵐先生でした。毎回楽しみにして読んでいましたっけ。 3年以上前 replyretweetfavorite

naor_ 日本的なもの発信?――第1章 オリンピックとニッポンの建築(1)| 4年弱前 replyretweetfavorite

architopic 第1章 オリンピックとニッポンの建築(1)| 4年弱前 replyretweetfavorite

gaakochan 第1章 オリンピックとニッポンの建築(1)| 4年弱前 replyretweetfavorite