終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
34歳の地図——タモリとアメリカの影 2
コミックバンドと誤解されたサザンオールスターズ
1981年にリリースされたタモリのアルバム『ラジカル・ヒステリー・ツアー』は、密室芸の延長線上にあったそれまでのアルバム3作とは異なり、タモリが真面目に歌い、そのあいまにドラマが挿入されるという構成になっている。発売に合わせてアルバムと同じタイトルを掲げた全国ツアーも行なわれた。
このアルバムの収録曲のうち「狂い咲きフライデイ・ナイト」と「スタンダード・ウィスキー・ボンボン」は、サザンオールスターズの桑田佳祐が提供したものだ。「狂い咲きフライデイ・ナイト」のほうは、タモリが主演し、写真家の浅井慎平が監督した映画『キッドナップ・ブルース』のエンディングでも使われている。ジャズ調のメロディに、けだるそうな声でタモリが歌っているのが印象深い。同時に、桑田本人が歌ったのなら、どんな感じになるのかも気になるところだ。
編集者の川勝正幸は、タモリと桑田佳祐を並べて、《世代もジャンルも違えど、日本のショービジネスのメインストリームにいながら、華と毒の両方を併せ持った男たちである》と書いた。なお、桑田は1956年生まれで、タモリより11歳下である。
タモリは75年にアイパッチをした“密室芸人”として、桑田は78年に「勝手にシンドバッド」のヒットで“コミックバンド”という誤解を受けながらサザンオールスターズのフロントマンとしてデビュー。当時からのファンはみんな、2人が今のような国民的な人気者になるとは思ってもみなかったハズだ。
(『ブルータス』2011年3月1日号)
桑田は青山学院大学在学中にサザンオールスターズを結成、1978年6月リリースのシングル「勝手にシンドバッド」でデビューした。8月にはTBSの歌番組『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」のコーナーに出演し、これをきっかけにサザンの人気に火がついたとされる。
サンバのリズムに乗せたアップテンポの楽曲に、中継先のライブハウス・新宿ロフトに集まった若者たちは熱狂した。このときスタジオにいる司会の黒柳徹子に「急上昇で有名におなりですが、あなたたちはアーティストになりたいのですか」と問われて、桑田が「いえ、ただの目立ちたがり屋の芸人でーす」と返したことは語り草だ。もっとも桑田がのちに明かしたところによれば、これはあらかじめ台本に書いてあったセリフだという。それでも、「目立ちたがり屋の芸人」こそ自分の原点だと、テレビ局の人間が見抜いてくれたことに桑田は感心したらしい(桑田佳祐『ロックの子』)。
あっという間にブレイクしたサザンは、歌番組にバラエティ番組に引っ張りダコとなる。番組中に「コミックバンドでしょ?」と訊かれても、桑田は否定することなく「そうですよ」と答えていたという。彼のなかでは、ノリの軽い音楽をやりたい、楽しんでやりたいという思いがあったからだ。
ただ、その思いはテレビ局側の要求と変に合致してしまったがゆえに、サザンに対する世間の誤解は深まっていくことになる。桑田としては「勝手にシンドバッド」はあくまで自分たちの持っている要素のひとつとして出したつもりだった。しかしそれが予想以上に当たってしまったせいで、2枚目のシングル「気分しだいで責めないで」も似たような線で行くしかなかった。誤解がようやく払拭されたのは、翌79年3月に3枚目のシングル「いとしのエリー」をリリースしてからのこと。このとき桑田は開き直ってスローバラードで勝負し、ヒットさせることに成功したのである。
サザンのデビュー曲をデモテープで聴いていたタモリ
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