表現とは、世界の要約をつくることなんじゃないか。ある思い、感情、状況をうまく凝縮させ要約すると、そこに美しさが宿って、絵ができたり詩が生まれる。
いま、ここに生きているわたしたちの内側に渦巻く感情を、短いことばでぴたりと要約し、提示し続けてくれている詩人が、ひとりいる。
その詩は、ごく平易なことばで、何気なく書かれたようなものばかり。それなのに、読み手の奥深くまでぐいぐいと入り込んでくる。
ご本人に、ぜひ問うてみたい。なぜそんな不思議なことが起こるのか。ことばには、どんなことができると信じているのか。詩が生まれるときとは、いったいつで、それはどんな感覚なのだろう?
読んでなにかを思ってもらえることが、一番大切だと心から信じている
「詩集にしては」という前提付きではあるにしても、『死んでしまう系のぼくらに』が広範に読まれています。9月に刊行されて、すでに増刷もかかったのだとか。
そうした状態に対して、「読んでくれてうれしい」「読んで、ぜひ読んで」といった趣旨のことを、ご本人がSNSなどで事あるごとに仰っているのが印象的です。
詩人としてはもっとクールに、「広く読まれても、そうでなくても、わたしの詩作には関係ないので……」との態度に出るのも、アリだと思うのですが。
「読んでくれなくたって、かまわないわよ」「わかってくれる人さえ、わかってくれればいい」といったスタイルの詩や、詩人の方はいますし、わたしもそうした姿勢に憧れがあったんですが、どうやらわたしはそのタイプじゃない。そう最近、自覚しました。
わたしの場合、自分で詩の良し悪しを判断するのが難しくて、昔から、誰かが褒めてくれた詩をいい詩だと認識することにしています。きっと読み手のほうが、書いた本人よりずっとよく詩のことをちゃんとわかってくれているんです。
それに、詩というのはわたしが書くだけじゃ、まだ何か足りない、完成しないものだとも感じます。何らかのかたちで発表して、だれかが反応してくれる、そのサイクルができた時にやっと、作品が完成するような、そんなふうに考えています。詩を書きはじめて7年くらいかけて、そのあたりにようやく気づきはじめました。
だとすれば、わたしの詩は、人に読んでもらうことこそ何より大事。読まれなければわたしの詩には価値がないとすら思います。読んでもらえること、なにかを思ってもらえることが、一番大切だと、いまは心から信じています。
そう考えられるようになったことは、わたしにとってけっこう大きな変化なんです。友だちに「これ、どう?」と自然に詩を見せられるようになったのも、ごく最近のことなので。
簡単に「わかる」と言ってほしくないと思うこともあった
中途半端に空いていたお互いの距離に、それまでサンドイッチを置いていたね。
——「絆未満の関係性について」
最果さんの詩はどれも、読んですぐ情景がはっきりと浮かんでくるわけじゃない。ある決まったイメージを浮かび上がらせるための言葉ではなくて、もっと言葉が自由に用いられている感覚がありますね。「読む楽しさ」を純粋に味わえるといいますか。
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