終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
34歳の地図——タモリとアメリカの影 1
タモリの真意を外れて広まった「ネアカ・ネクラ」
1976年から83年まで7年間続いた、ラジオの深夜番組『タモリのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)は、デビューからブレイクにいたる時期のタモリにとって、きわめて重要な番組であった。同番組を愛聴していたイラストレーターの山藤章二はタモリとの対談で、《タモリさんの原点——(中略)本体というか本質というか、そういうものがストレートに出てたのがあの放送だったと思ってるんですね》と語り、《あの番組は大事になさってたんじゃないですか》と訊ねている。これに対し、タモリは次のように答えた。
えェ、大事にしてました。もうどんなにスケジュール忙しくてもとにかくやろうと。で、ニッポン放送からも休めっていわれたんですよ。こんな状態だとちょっと出来ねェだろうと。いつ復帰してもいいからしばらく休めってね。でも、いや、オレもいろいろやってきたけども、いまんところ自分の顔みたいな番組はこれしかないから続けさせてくれっていって、ま、そこまでいうんならどうぞって話になったんです。
(山藤章二『「笑い」の解体』)
昼間はどんなことを言っていても、やはりどこかで誤解されてはいけないとの意識がどこかで働いて、つい婉曲な表現をしてしまうが、深夜放送でなら率直に言えるというのがタモリの言い分であった。
『オールナイトニッポン』でタモリは、のちに流行語となる言葉も生み出した。「ネアカ・ネクラ」がそれである。これは、1978年の年明け最初の放送での発言が発端になっているという。そのときどんなことを話したのか、ここでは1984年の雑誌の対談でのタモリの発言から引用してみよう。
長い間、オレは人を判断する基準というのがわからなかった。まだ人と付き合う人数が少ないサラリーマン時代は、なんとかいけたけれども、この業界に入って急にいろんな人と付き合うようになって、何がいい人で何が悪い人なのかという判断基準に困ってたんだけど、簡単なことを発見した。それが、根が明るいか暗いか。で、根が明るいやつは、もうオレは付き合う必要はない。根が明るいやつは、なぜいいのかと言うと、なんかグワーッとあった時に、正面から対決しない。必ずサイドステップを踏んで、いったん受け流したりする。暗いやつというのは真正面から、四角のものは四角に見るので、力尽きちゃったり、あるいは悲観しちゃったりなんかする。(中略)でもサイドステップを肝心な時に一歩出せれば、四角なものもちがう面が見えてくるんじゃないか。そういう時に、いったん受け流したりして危機を乗り越えたりなんかする力強さが出るし、そういう男だと、絶対に人間関係もうまくいく。
(『筑紫哲也対論集 若者たちの神々 Part4』)
ただし、タモリが言いたかったのはあくまで「根」の部分だった。
表面が明るそうに見えても暗いやつがいる。オレが言ってるのは根の問題なんだ。表面が暗くても、根の部分で明るいやつがいるから、だから、黙って暗くしているからといって、こいつは根が暗いと思っちゃだめだ、というふうに言ったんです。
(前掲書)
ところがネアカ・ネクラは、その肝心の根の部分を飛ばして、単に表面的に明るいか暗いかを表す語として広まってしまう。《いまはワアワア言っているやつが根が明るいと言うわけでしょう。もうしようがないですね。宴会芸とかなんかを見ていますでしょう。そうすると暗いやつが明るく振る舞うんですよ。そこでも言うんですけど、暗いやつが明るいやつのように振る舞うのは見苦しくて悲惨もいいとこだ、暗いやつは暗いまんまで表現したほうが、かえって面白い場合がある》とタモリが嘆いたときには、すでに手遅れだった(前掲書)。