「——」
ゆっくりと落ち着いた口調で、私は名前を呼ばれた。
呆然と立ち尽くしていた私は、突然の声にハッと我に返り、顔を上げる。
今の声は……?
「——」
続けてもう一度、名前が呼ばれる。聞こえてきたその声の響きはとても優しく、私をどこか
私はたぶん、この声を知っている。
でも、まさか……。
声の主を探して周りを見渡してみる。私の視界には白い景色が広がっていて、その中にポツリとたたずむ人の影があった。
ああ……やっぱり——。
そばに歩み寄ろうとしたが、上手く足を踏み出せない。その場に立ち尽くしたまま、
こんな機会がもしあるのなら、話したいことはたくさんあるんだと、そう思っていた。
だけど今、何から話せばいいのかわからない自分がいる。
「——」
私はただただ、頷きながら、その人が
感謝、喜び、悲しみ。いろんな感情がごちゃまぜになりながら、その言葉に耳を傾けた。
そうだったんだ。ごめんなさい。でも、ありがとう、ありがとう……、
「——ありがとう」
その一言が自然と口をついて出ていた。
それをきっかけに、せきを切ったように感情が溢れ出し涙が止まらなくなった。号泣していた。
だが、待ち望んでいたこの時間もやがて終わりを迎えることになる。
ゆっくりと落ち着いた口調で、私は最後に、こう問いかけられた。
「あなたは……誰を選びますか?」
そうか、次は自分の番なのだ。ならば、それはもう最初から決まっている。
だけど……。
小さく息を吸い、涙で濡れたまぶたを
そして、心に浮かんだ姿をかみしめるように、私は、その名を告げた。
人は誰しも、ひとつぐらい、どうしても忘れられない想い出があると思う。
楽しかったこと、悲しかったこと、喜んだこと、怒ったこと。それはきっと人によって様々で、人の数だけいろんな忘れられない出来事が存在するのだろう。
これから話すのは、そんな想い出の話。
僕、
十四歳の夏。僕は中学二年生だった。
あの夏の間に経験した何気ない
思えばあれが自分にとって、最初で、最後の、恋だった。
七月二十五日
「なぁ、悠治。今晩さぁ、星、観に行かねぇ?」
「何だよ急に」
「ほら、夏休みの自由研究あるじゃん? あれ、星の観察とかやったらいいんじゃないかなって思ってさ」
「へぇ。でもお前、別に星とかそんなに興味なかっただろう?」
「うん。けど、悠治は宇宙とか星とか詳しいでしょ? 二人でやったら、手っ取り早くていいかなと思って。だから一緒にやろうよ」
「それ、
「まぁな!」
智史は自信満々に答えながら、少し癖のついた茶色の短髪をかきあげた。
この日も僕らはいつもと同じように、智史の家でダラダラと時間をつぶしていた。
「……まぁいいや。じゃあ今から家に帰って、天体観測の準備をしてから、また戻ってくるよ」
「わかった。ええと、七時くらい?」
僕はポケットから小さな懐中時計を取り出し時刻を確認する。今は夕方の六時十分だから、五十分後か。
「じゃあそれぐらいで」
そう答えて、自転車にまたがり自宅へ向かう。
星を観るならどこがいいだろう……? そんなことを考えながらペダルをこぐ。ちょうど
僕らが住んでいるのは、山間部を切り
あそこの公園なら星もよく見えるし、天体観測にはちょうどいいかもしれないな——。
一度自宅に戻り、荷物を抱えて再び智史の家に戻ってきた。智史は家の前で自転車のサドルに座った状態で待っていた。
「おっせえよー!」
僕の顔を見るなり智史が言った。智史は少しせっかちなところがある。おそらくだいぶ前から外で待っていたんだろう。
「いろいろと準備してたんだよ」
「何持ってきたの?」
「望遠鏡とか、あと星座盤とか」
僕は自転車から降り、父親から借りてきた天体望遠鏡と星座盤を見せた。
「本格的だなー」
ものすごく
天体観測って言い出したのはお前じゃないかよ……! そんなことを思うが、智史のこういう適当なところはいつものことなので、いちいち気にしてもしょうがない。そう自分を納得させて、再び自転車にまたがった。
「ほら、さっさと行こうよ」
僕たち二人は高台の公園に向け、すっかり暗くなった夜の街に自転車を走らせた。
昼間は子どもや近所のお年寄りで
公園脇の駐輪場に自転車を停め、公園の出入り口に向かう。智史がふざけて公園の出入り口にある車止めの柵をぴょんと飛び越える。僕は「また怪我するよ」と笑いながら、柵の横をすり抜けた。
そのまま広々とした公園の中央に向かって歩いていくと、すでに先客がいた。
一人の少女がベンチに腰かけて夜空を見上げている。
白いワンピースに黒いカーディガンを肩に羽織ったその少女は、
僕らと同じ年くらいだろうか。不思議な雰囲気に
「あれ、一組の
「え、誰? 知り合い?」
「いや。顔と名前を知っているくらいで、話したことはないけど」
そんなやり取りをしていると、少女も僕たちに気付いたようで、こちらに顔を向けた。
「ねぇ、一組の藤沢さんでしょ? 何してるの、こんなところで?」
智史が話しかけたが、少女はまったく答えるそぶりも見せず、
「あ、おれ五組の河村。こっちは同じクラスの水上」
それでも智史は話しかけるのをやめない。よく堂々と話しかけられるなこいつは。そう思いながら、その様子を見ていると、彼女は無言でペコリと頭を下げて
そのとき、何かに気付いたのか、僕のほうに彼女の視線が向けられた。
伏し目がちに僕のことをじっと見つめている。黒い瞳に思わず見とれてしまう。
「それって……望遠鏡?」
「えっ、ああ、うん」
突然話を振られて、挙動不審気味に答える。
「そうそう。ここでね、天体観測しようと思ってさ!」
智史が前のめり気味に言った。
「ねぇ。それ、私も見せてくれない?」
「ああ、うん。別にいいけど……。ちょっと待ってて」
僕は三脚を広げて望遠鏡のセッティングを始める。まずは月に向けて望遠鏡のピントを合わせ、すぐに見られるように準備する。父親とよく天体観測に行っていたから、扱いにはもう慣れたものだった。
「はい、どうぞ。ここから
彼女は僕にうながされるまま、片目をつぶって望遠鏡を覗き込む。
「……月…」
「……すごいね。こんなにはっきり見えるものなんだ」
「今日はちょっと月が欠け過ぎてるけど、もう何日か
「でも、クレーターもちゃんと見えるし、十分すごい……」
口調は大人しいが、どうやら喜んでくれているみたいだ。それがちょっと嬉しかった。
「ねぇねぇ、俺も見たいよ!」
興味を引かれたのか、智史が俺も俺もと主張を始めた。
「あ、ごめんなさい」
と謝りながら彼女は智史に場所をゆずる。智史は腰を少しかがめて、望遠鏡のレンズに目を通した。
「……おお! 見える見える!!」
嬉しそうにはしゃいでいる。落ち着いていた彼女と比べて、その様子があまりにも子供っぽい感じがして、思わず笑ってしまう。
「これ、頑張ったら月面の謎の建造物とか発見できるんじゃないの?」
「こんな小さな望遠鏡で探せるくらいなら、とっくに誰かが見つけて大騒ぎになってるでしょ」
「そりゃそうだな~」
僕の返答に対して、智史は本当に残念そうな顔をする。そんな僕らのやり取りを、
「……君たち、仲いいね」
「えっ? ああ、うん。僕ら二人、家が近所でさ。幼稚園に入る前ぐらいから、しょっちゅう一緒にいるんだよね。幼馴染みって感じかな」
それを受けて智史が話を続ける。
「でも、こいつじゃなくて可愛い女子が幼馴染みだったらよかったのに! ってたまに思うけどな」
「へぇ……」
あからさまに関心のない感じで彼女は智史の言葉を受け流し、携帯電話を取り出して、時刻を確認する。
「それじゃ私、もう帰るね」
彼女は公園の出入り口に向けてチラッと視線を送る。
「あれ? もう帰るの?」
智史が
「うん。望遠鏡、見せてくれてありがとう」
彼女は僕のほうに向かって言った。
僕も彼女のほうを向いて、「どういたしまして」と返した。
「帰り道、一人で大丈夫?」
智史が軽い感じで紳士的な発言をする。この時間帯ならまだ、駅から帰宅する人の通りも多い。とはいえ、夜道を一人で帰るのは危ないんじゃないか? と僕も思った。
「大丈夫。家、すぐそこだから、それじゃ」
彼女はそう告げると、そのまま出入り口に向かってゆっくりと歩いていく。
こちらを振り返ることもなく去っていく様子を、僕らはなんとなく見送っていた。彼女は公園を出ると、すぐ近くにある団地へと入って行った。
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『サイハテ』は9月20日(土)発売です。

14歳の夏の出会いと天体観測。そして「最初で、最後の、恋」。
10年後、ふたたび回り始めた運命は、ある秘密を明らかにする——。
切なく、あたたかいストーリーをぜひ楽しみください。