情況としての画像―高度資本主義下の「テレビ」(吉本隆明)後編

吉本隆明著『情況としての画像―高度資本主義下の「テレビ」』評、後編です。数多くの著書を持つ吉本隆明にとって、唯一のテレビ時評である本書。昭和から平成という時代の変換期に、テレビの画面を通して吉本隆明はなにを感じたのでしょうか。そして、現在を生きる我々は、本書からなにを受け取ることができるのでしょうか。

子育てから見える大衆とテレビの関係


情況としての画像―高度資本主義下の「テレビ」

 映像は本質的に多様でもある。吉本隆明がいう「幻影の共同体」は、単純な政治性にだけ還元されるわけではない。私たちの生活過程の内省に深く関わっている。その側面が本書で明確に表現されているのは、手塚アニメについての言及である。天皇の死に続いた彼の死の文脈にある。

 わたしにとって手塚治虫のテレビ・マンガの一系列は、子育ての歴史とパラレルだった。やっと月賦で白黒テレビを購入して、子どもと一緒に「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「ワンダースリー」「リボンの騎士」「海のトリトン」「マグマ大使」などを視ながら、子育ての歴史をたどった。わたしじしんが子どもをもち、子どもを育て、その成長の過程を見つめながら、昨日も今日も明日も平坦に生活をすごしてゆくという境涯にいることが、まだどこかで不思議で仕方がないような思いをしてきた。またもう一方では、じぶんは子どもをもち、さりげなく育ててゆくというより以上の仕事は、なにもできなかったし、これからもできないのではないかとしばしばかんがえたほど、子どもということに、重要さをおいてかんがえた。この奇妙に混乱したり、矛盾したりしながら、愉しい救いでもあった印象深い精神状態と、手塚治虫の一系列のテレビ・マンガの放映とは、わたしのなかで切りはなすことができない。

 テレビを見る行為は吉本にとって、子育てとして、子どもとの生活過程のなかで重要性をもっていた。それは吉本自身が編む政治思想や文芸批評より重要だったと言ってのける。同時にそれはごく普通に大衆がテレビとすごす本質的なあり方でもあった。そこでこそ手塚治虫というアニメーターの巨大な意味の一つが示せることを吉本は知っていた。

またもっと勝手なことをいわしてもらえば、かれのテレビ・マンガの世界が継続していなかったら、わたしの子育ての行方はもっと混沌として、とりつく方法をみつけるのが難しかったに相違ないとおもえる。

 私が本書を長い年月を経て読み返して、今、痛いほどにわかるのはそこだ。私もまたこの間に、当時の吉本のように、父として子どもにテレビを見せる側になった。テレビを軽視していた30代初頭の私も、30代後半からは子育てをするようになり、子どもと一緒にテレビ番組を見続けるようになったのである。テレビがなければ「子育ての行方はもっと混沌」していただろう。

 私の場合は、それはNHK教育テレビジョン(Eテレ)だった。このチャンネルのコンテンツを取り澄ました教育や啓蒙だと思う人も多いだろう。だが、そこに提示されている子ども向けコンテンツは、おそらく高度な知的さと自由さを示していた。人間という生体が感じうる自由の感覚を最大限に広げさせるものだった。大人の鑑賞にも耐える独自の芸もあった。この側面のテレビ映像の評価は、吉本隆明の子育てを私が実質追体験することで理解しえたことだ。

自分が歴史の一部であると自覚すること

 テレビ時評というのは奇妙な分野だと改めて思う。読み返して気づいたのだが、本書は吉本隆明の著作集のなかでも独自の意味をもっている。吉本隆明全集が晶文社から刊行されつつある現在、その膨大な総目録を見ると、本書が「唯一のテレビ時評」とあるように、実はこの分野の著作はこの一冊だけである。そしてあの時代はテレビでしか映しだせなかったものを多く抱えていた。

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