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アロマオイルを小皿に垂らし、キャンドルに火をつける。
心を落ち着かせるジャスミンがいい。ほどよくオイルが温まり、甘い花の香りが3畳ほどの小部屋に充満した頃、彼女はやってきた。
「コンコン」
「どうぞ、お入りください」
近くのビルにある、三省堂書店有楽町店で働いている新井さんだ。
待合室に置く雑誌を毎週まとめ買いするので、自然に、顔を見ればどちらからともなく会釈するようになった。
いつしか挨拶を交わすようになり、そして昨日、アロママッサージの無料体験チケットを渡したところ、すぐに予約が入った。
「いらっしゃいませ」
「ど、どうも」
紙パンツにバスローブ姿の新井さんは、売場で見かける澄ました居住まいとは全然違う。所在なげにキョロキョロしていて、落ち着かない。私は少し、気分がよかった。
ベッドの上に横たわらせ、体にオイルをたらし、ゆっくりと血の流れに沿って体を優しく撫でる。
やがて室内の照明を落とし、顔の上に分厚い泥を塗りたくる。
「目に入ると、角膜が傷付くことがあるので、絶対に瞼を開けないでくださいね」
「……」
素っ裸の無防備極まりない状態で、暗闇の中にいる新井さんは、頷いた。
「あの……」
暗闇の中での沈黙に耐え切れなくなったのか、新井さんは突然口を開いた。
「この、何も見えない状態でいると、先日読んだある小説のことを思い出してしまうんです……」
「さすが本屋さんですね。何て本ですか?」
「下村敦史さんの『闇に香る嘘』です。今年の乱歩賞をとった」
「へー、おもしろいんですか?」
新井さんは、おもしろいというか……、と一瞬口ごもると、なんだか急き立てられるように、語り始めた。
*
「主人公は目が見えないんです。途中までは見えていたけど、過去の栄養失調が原因で、41歳のときに失明してしまって。
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