第0回】 次世代へ希望をつなぐ「21世紀の薩長同盟」

京大、マッキンゼー、ホスト、船井総研という異色の経歴を経てきた若き思想家・倉本圭造さん。彼の処女作『21世紀の薩長同盟を結べ』は、23万字にわたる圧巻の提言書です。そんな意欲作のエッセンスを、cakesでもお届け。閉塞的な空気に包まれた日本のなかで、希望を次世代へとつなげ、世界へと広げていく方法とは。第0回はイントロダクション。倉本さんが原生林に行った体験をもとに、現代の資本主義社会にひそむ問題を指摘します。

「本当の自然の豊かさ」は、私たちの
想像を超えたところにある

 一昨年の夏、私は京都府の美山というところにある、京大農学部演習林に指定されている「芦生の森」という山地へ行く機会がありました。そこの奥地には人間の手が加わっていない、いわゆる「原生林」が残されているのですが、そこの土を踏んだ瞬間、あまりの柔らかさに「うわっ!」と驚きの悲鳴をあげてしまいました。

 山奥にある「原生林部分」にたどりつくまでには林業のために整備された道があり、人の手で植林もされているので、「へー、これが噂に聞く芦生の森かー」というブランドネームに騙された感慨はあるものの、それほど「ものすごいなあ!」という感じもせず、「まあ、この程度だろう。うんうん、自然っていいよねー」的感覚で通って行ける場所でした。

 しかし、その林道の行き止まりまで行き、道なき道を魚屋さんみたいなゴム長靴で踏み分けて行く地帯に入ると、地面の感覚がぜんぜん違うんですね。

 アスファルトに比べて舗装されていない土は柔らかくて足腰に優しいよねという話はよく聞きますが、その「舗装されていない田舎道」がマンションのカーペットの床程度の固さだとすると、原生林の地面は厚さ15センチのスポンジの上を歩いているような、そしてヌカルミに足を踏み入れてしまうと膝までズボッと入ってしまうような、それほどの、「こんな地面は踏んだことがなかった」というぐらいの柔らかさなんですよ!

 つまり、「本当にぜんぜん違う」んですね。

 私は子供のころ、父親につれられて結構あちこちの山に登りましたが、それでも「こんな土は踏んだことがなかった」というぐらい「本当にぜんぜん違った」のです。

 都会に住む人に比べて田舎に住んでいる人は自然を知っているようなイメージがありますが、しかし田畑という「人類最初の工場施設」に日々触れていらっしゃる農家の方々でも(むしろ、・だからこそ・という部分があるかもしれませんが)、この「本当にぜんぜん違う自然の土」に出合う機会は非常に少ないのではないかと思われます。

 美山の原生林のスポンジより柔らかい土壌には、そこにいる微生物たちや、コケ類やシダ類といった植物たち、それを食べる小さい虫たちや、クマやシカやサルといった動物たちなど、人間の手で単純化した環境にはいない「多種多様な生き物たち」が暮らしているんだなあ、ということが「理屈でなく実感」できるような柔らかさがありました。

 そして、ちょっとロマンティックすぎる連想だと思われるかもしれませんが、「こういう世の中になればいいなあ」と、強く思いました。

ホンモノの「自然の生存競争」と
「豊かな土壌」は両立している

 人間には、巨木タイプの人間もいれば昆虫タイプの人間もいます。熊タイプも鹿タイプも、日の当たらないところで着々と本分をこなす微生物タイプの人間もいることでしょう。読者のあなたご自身は、何タイプの人間だと思われますでしょうか。

 そして、巨木だけが偉いとか微生物はダメだとか、そういう差別は自然界には一切なく、それぞれが生態系全体のなかでかけがえのない役割を果たして共に生きているというのが「社会の理想状態」であるという考え方は、多くの読者のみなさんにも納得していただけるビジョンなのではないでしょうか。

 社会全体が短視眼的に単純すぎる部分に特化すると、言ってみれば「生態系が単純化」してしまい、「イキイキと生きられる人間の種類」が非常に限定されるようになり、その人間の本来の性質からすると無理に無理を重ねて生きねばならなくなるような人が増え、社会に怨念が渦巻いて、良からぬ状況が現出してしまいます。

 今の日本は、言ってみればそういう状況だと考えられます。

 もちろん、経済の問題があります。理想だけではメシは食えません。弱肉強食は世の常です。冷戦時代の共産主義の大失敗を例に挙げるまでもなく、経済がちゃんと元気でないと、どんな理想も結局誰のためにもならない苦労のなかに朽ち果てるでしょう。

 しかし考えてみてください。今の時代「経済市場の競争原理」と「弱肉強食の自然の生存競争」とを対比する比喩はよく使われますが、その芦生の原生林にだって「冷酷非道の完全無慈悲な生存競争」は存在しているわけです。

 森のなかの植物たちはすべて、光を求めてシノギを削っています。大きな巨木が倒れた場所には、いっせいに成長の早い陽樹たちが芽吹き、背を伸ばし、「俺こそがこの位置で光をいちばん浴びてやるぜ」とギラギラした欲望を燃やして頑張っています。

 大きな巨木に絡まりながらツルを伸ばすことで、なんとか光にたどりつこうとする植物もいます。あるいは逆に、光の量が少ない暗がりでもちゃんと生きていけるような命のあり方を選択する植物もいます。「あんたの場所を奪っちゃったらかわいそうだから、俺あんまり伸びないでおくよ」といったナアナアの譲り合いなど一切ないように見えます。

 にもかかわらず。にもかかわらず、です。芦生の原生林には豊かな生態系があるように見える。そこで生きている生き物の種類は、人工的に単純化した森とは比べ物にならないほど豊かなものです。しかし、そこで起きていることは決して「自然の厳しい生存競争」から無縁のものではないわけですよね。

 つまり、「本当の自然の厳しい生存競争」は「多種多様な生命の豊かさ」を内包したものである、と言えます。

やればやるほど土壌がやせ細っていく
「資本主義社会の生存競争」

 一方で、今の世の中で行われている「適者生存の経営競争」とやらは、「それが自然の摂理なんだぜ」とタフぶって見せる精神によって行われているにもかかわらず、「本当の自然が持っている豊かな多様性」を持ったものになっているでしょうか?

 よく経済学者が「公的な規制によって市場環境が歪められ、適切な自然の淘汰メカニズムが働いていないのが問題だ」という趣旨の発言をします。「神の見えざる手」に任せていればすべてうまくいくはずなのに、そうなっていないのは人為的に「歪めて」いるからだという発想です。

 規制緩和問題と関連した部分でのこの発想の可否はとりあえずおいておきますが、しかし我々は、「本当の原生林」「本当の自然淘汰」はむしろ「生物多様性を促進する」ものであるということを知っています。つまりそれは「どこかで人為的に歪められて伝わっている」のではないでしょうか。

 今の市場経済は「どこが」歪んでいるから、「抑圧されて怨念の塊になる人たち」が生まれているんでしょうか? どうすれば、「本当の自然淘汰メカニズム」を働かせて、芦生の森のような豊かな生態系を、現実の経済のなかに出現させることができるのでしょうか?

 それを考えてみるのが本書のテーマです。

「自分はこうやって成功したんだから
お前もこうやれ」を越えて

 私は以前、マッキンゼー・アンド・カンパニーという外資系経営戦略コンサルティング会社で、日本企業に「外資っぽい戦略」を授ける仕事をしていました。

 しかし、そのプロセスのなかでは、「これでいいはずなんだけど、なんか・日本人の本能・とうまく?み合わないんだよなあ」と思うことが多く、それ自体は必要なことが多いものの、・これだけ・を続けていけば「いずれ日本中に怨念が渦巻いて、前向きな意見がぜんぜん出なくなったりするだろうな」と感じていました。

 そこにいずれ「アメリカンなロジック(論理)」と「日本人のリアル」を発展的にシナジーする(相乗効果的に協力し合う)新しい考え方が必要になるだろう。それには、何かアメリカ直輸入的なものでなく、欧米直輸入的なものでなく、かといって昭和の日本にあったようなものへの単純な懐古主義でもなく、「いま目の前にある日本人のリアル」を深く多面的に見たうえで、まったくゼロから作り直すような「視点」が必要になるだろう―そう思いました。

 というより、日々の仕事のなかで、身を切られるようにヒシヒシと「痛感」していました。

 そこで私はマッキンゼーを退職し、まず、若くて転職余力があるうちに、恵まれた環境にいたのではわからない日本社会の暗部を見なくてはならないと思い、訪問販売やネットワークビジネスといった、良識派な読者の方からすると評判のよろしくない業界に参加してみたり、ときにはホストクラブや新興宗教団体にまで潜入して、「そこで生きている日本人のリアル」をこの目で見ていく
ことから始めました。

 思春期にオウム事件などを経験した私としては、そういう今の社会の・平均的良識・の・外側・にいる人たちが、どういう生い立ちで、どういうことを考えて、どういう望みを持って生きているのかを、ルポルタージュやインタビューではなく、「自分もその立場に一員として参加する」ことで知っておくことが必要だという強い感覚があったからです。

 そしてその後、マッキンゼー(誰もが知っている超大企業や各国政府、欧米の多国籍企業などがクライアント)とは対照的な、・純和風・コンサルティングを標榜する船井総合研究所に入り、今度は商店街のおっちゃんの店から、大きくても年商100億程度の中小企業のコンサルティングにも従事しました。

 そして最終的に「本当の転換は企業単位でなく個人単位からでなくては起こせない」という結論に達し、今は個人相手の「人生戦略コンサルティング」のようなものを起業して暮らしています。そのクライアントには、20代の営業ウーマンさんから50代の大企業エンジニアのオジサンまで、ときにプロボクサーさんまでいます。

 そのプロセスのなかで見えてきたことは、日本人それぞれの「今」というのは立場によってまったく違う状況にあり、「自分はこうやって成功したんだからお前もこうやれ」というだけでは解決できない断絶がそこにはあるということです。しかし、その「断絶」を越えて、「新しい連携」を生み出せれば、「今の延長でとにかく頑張る」よりももっと楽に、スムーズに、幸せに、新しい経済付加価値を生み出せる可能性があります。

 あらゆる国難を幕末にたとえるのは良くない部分もありますが、あえてこの状況を坂本龍馬の時代にたとえるのならば、これは21世紀の日本で実現されるべき「薩長同盟」であると言えます。

 幕末期の日本において薩摩藩と長州藩が手を組んだことは、ただ倒幕派の大きな二つのグループが手を結んだということだけではなくて、「理論先行で個人主義者の集まりである長州藩」と「親分の意向で集団が一つの生き物のように動く(いわゆる・和をもって貴しとなす国=日本・のイメージ)薩摩藩」という「非常に相容れない志向性」を持った二つのグループが手を結んだという「大きな転換」でもありました。「個人主義者の日本人」と「集団主義者の日本人」は、日常でいつも一緒にいるとお互い嫌な思いをすることが多いわけです。しかし、「お互いの本来の長所を活かし合う」ような連携ができれば、お互いが「とても心強い味方」になり得ます。

 当初はものすごく憎しみ合っていた薩長両藩が手を握ったような「新しい連携」が生まれれば、日本経済は息を吹き返すことでしょう。

 つまりこの本は、「長州藩側(グローバリストの日本人)」にも、「薩摩藩側(・和の国・の日本人)」にも、「両方」にとって意味のある本になっているはずだということです。

 これを読むあなたとともに、日本に「新しい連携」と「新しい経済」を生み
出せることを願っています。

 

 

本連載の内容があますところなく楽しめるのはこちら!

21世紀の薩長同盟を結べ (星海社新書) 21世紀の薩長同盟を結べ (星海社新書)
倉本 圭造
講談社

 

ジセダイ by 星海社新書

この連載について

21世紀の薩長同盟を結べ

倉本圭造

京大、マッキンゼー、ホスト、船井総研という異色の経歴を経てきた若き思想家・倉本圭造さん。彼の処女作『21世紀の薩長同盟を結べ』は、23万字にわたる圧巻の提言書です。そんな意欲作のエッセンスを、cakesでもお届け。閉塞的な空気に包まれ...もっと読む

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