「心理療法士が、患者の治療をはじめるときに信頼関係をまず築く必要があり、その信頼のことをラポールと呼んだんだ。恋愛工学では、女が、男のことを信頼して、心を開いている状態のことだ。イエスセットのほうも、そのうち基本的な心理学のフレームワークを教えてやるから、そんなものがあると思っておけばいいよ。とにかく会話では、女がイエスとこたえる質問や、イエスと自然とうなずくような他愛もない言葉をたくさん織り交ぜるのはとてもいいということだ」
「わかりました。イエスと言わせることですね」
「イエス! それで、最初の脈ありサインが、俺が株式投資してるって言ったときに、恵子が、儲かる株を教えてって言っただろ? 女が自分から会話をはずませようとしている、それ自体がまずは脈ありサインのひとつだ。さらに、彼女の声のトーンが明るくなった。目がキランと輝いた。みっつもサインが出てたんだ」
「なるほど」
「そこで、俺はすかさず、知っててもお前らに教えるわけないだろ、とディスった」
「ディスる?」
「ディスるというのは、ディスリスペクト、つまり蔑むという意味だが、恋愛工学では、ギリギリ笑える範囲で相手を馬鹿にしたり、からかったり、失礼なことを言って、恋愛対象として相手に興味がないように振る舞うことだ」
「そんなことしていいんですか!?」
「女は、紐のおもちゃと戯れる子猫みたいなものなんだ」と永沢さんは言った。「紐を子猫の目の前でぶら下げて動かしてやると、それをつかもうと夢中になる。しかし、その紐を放して、子猫の目の前においてやると、とうとうつかんだにもかかわらず、動かなくなった紐にはもはや興味がないんだ。女が脈ありサインが出してきているということは、紐のおもちゃをつかまえようとしている子猫と同じなんだ。こっちがすぐにこたえてしまっては、ひもをつかんだ子猫と同じになってしまう」
「なるほど、そういう意図があったんですね」
「そのあと、恵子が甘えた声を出したから、俺はあれは確かに脈ありサインだってことを確信した。そして、それに適切な方法で対応したんだ」
「それから、あのフォトショ修正のジョークに繋がって行くんですね。あれもその、ディスるのと褒めるのをいっしょにやって、恵子の前で紐を動かし続ける狙いだったんですか。それにしてもあんなジョークよく思いつきましたね」
「いや、思いついたんじゃない。肌が綺麗な女に『それCG?』って言ったり、妙にメイクがバッチリ決まってる女に『それフォトショ修正?』って聞いて笑いを取るルーティーンを使ったまでだよ」
「ルーティーン?」
「ルーティーンって言うのは、女に話しかけたり、会話を弾ませたりするときに、繰り返し使うトークスクリプトのことだよ。繰り返し使うということで、毎回使うデートコース全体のことをルーティーンと呼ぶこともあるが、基本的にはナンパの台本のことだな」
「魔法の口説き文句ですか?」
「魔法なんてものは存在しない。しかし、女と上手く行く確率が高まる、よく出来たルーティーンは存在する。しかし、いきなり多くのことを教え過ぎたな。これだけのことを考えながら女と会話するなんて、いまのお前には不可能だ。とりあえず、俺が言ったことは全部忘れろ。お前に必要なことは、根拠のない自信を持って、女に話しかけるガッツだけだ」
「そうですね。僕も頭が爆発しそうでしたよ。こんなに頭を使ったのは、弁理士資格の試験のとき以来ですよ! ところで、なんで美人の愛子じゃなくて、春奈とばかり話してたんですか?」
「だから、いまのお前に必要なのは、ガッツだけだって言っただろ。まずは、あそこのリストバンドを付けたふたり組に話しかけて来い」
「どうやって話しかければいいですか?」
「このパブにどうやって行けばいいか、聞いてこい。女に道を聞くのは、ナンパの最も基本的なルーティーンだ」
道を聞くぐらいとても簡単なことだと思った。しかし、いざ聞こうとすると足が動かない。僕はそのパブにどうやって行けばいいのか知っている。知っているのに、知らないふりをして聞くのは、別の目的があるのにそれを隠しているみたいで、後ろめたいというか、恥ずかしい。わずか数秒間のうちに、僕がいま彼女たちに声をかけない理由が、次々と頭に浮かんできた。僕が道端で固まっていると、ふたりはどんどん遠くへ歩いて行く。
「そんなところで突っ立ってて、まるで地蔵みたいだな」
「で、でも、道を知ってるのに、わざわざ聞くなんて、おかしくないですか?」
「言い訳はいいから、とにかく聞いて来いよ。これは業務命令だ」永沢さんは語気を強めた。
しょうがない。これは業務命令で、会社で上司から命令されているんだ。そう考えると、不思議なことに道を聞くぐらいどうってことないという気がしてくる。最初に話しかけようとしたふたり組は、すでにどこかに行ってしまった。僕は別のふたり組を見つけ、歩いて行った。ふたりともOLっぽい。
「すいません」と僕は話しかけた。「街コンに参加している方ですか?」
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