川上未映子 第二回「育児を始めてからの1年は、夫婦とは他人だと思い知る1年だった」

『きみは赤ちゃん』を上梓し、大反響を得ている川上未映子さん。iPhoneを片手に、妊娠・出産の苦しさの渦中で原稿用紙換算枚数で千枚近くを書き綴った川上さんは、何に執着をして、この作品を紡いだのでしょうか。小説家でありながら、代表作と語るほどの出産・育児エッセイはどうして、エッセイでなければならかったのか。書かれたものは、日記であれドキュメンタリーであれフィクションが入り込むと自覚しながらも、ここで起きたことすべてを、言葉にして書き尽くしたいと欲望した川上さんの執念にせまります。

 気持ちのうえではわたしの代表作です。

新刊『きみは赤ちゃん』について、川上未映子さん自身はそう評する。2012年に男児を出産した体験をもとにした出産・育児エッセイだ。

前回に引き続き、出産と育児を、一度きりの自らの体験へと取り戻した内実について話を聞いた。

互いに分かり合えないと気づくのは、悲しいだけではなかった

出産を経て子育ての真っ最中である現在、母親としての理想像は生じてきた?

 あらゆる意味で、負担にならない母親になりたい、っていうことぐらいでしょうか。それが子どもにしてあげられる唯一のこと……というより、責任に近いような感じがする。

「毒親」という言葉がありますよね。子どもに対して過度に依存したり支配しようとして結果、よい関係を築けないでいる親。気をつけないと、そういうところに陥りがちだというのは、どの親にもいえることじゃないですか。人の欲望って自分が思わないかたちで出たりするし、知らないあいだに野放しになってることもあるし。

 健全な—って、毒親であれどんな親であれ、自分たちはそれなりに健全だと思ってるんだろうけれど(笑)、でもまあ、良好とまではいえなくても、ひどくない親子の関係ってどんなものなんだろうと考えていくと、経済的にも感情面でも、できるだけ負担にならない親でありたいというところに落ち着きますね。そのためには、具体的な距離が必要だと思っています。

本書を読み、川上未映子さんのことばを聴いていると、初めて気づく。男性は子が産まれたからといって、自動的に父になるのが難しいものだけど、どうやら母親だってそうなのかと。

 もちろんそうですよ! 生んだ瞬間にすぐ、全面的に母親になれるということはないですよ。

 出産というものすごい一大事があっただけで、基本的には「昨日のわたし」とおなじです。けれど、母親には、生んだらすぐに授乳するとか、やらなきゃいけないことがたくさんある。そういう具体的な行動の一つひとつが、母親を「母親的役割に従事する人」たらしめていくんでしょう。

 でもやっぱり、生んだ瞬間から—もちろん感動はありますし、胸の底から、これまで体験したことのない「かわいい……」という思いはあふれてきましたが、「母親らしい慈しみ」みたいなものがあふれてきたかといったら、そんなことはなかった。8割は外圧による変化です。

 それに、誰だって初めてのことは分からないことだらけですよね。母乳は出るけど、母親の本能ですぐ理解できるとか、そういう都合のいいことはありませんでした。

 そうそう、赤ちゃんが生まれたあとって、わたしのかかった産院だけだったら申し訳ないんだけれど、病院でお母さんだけが呼ばれて説明を受けるんですよ。これからの一か月が赤ちゃんにとって、生きるか死ぬかの分かれ目です、熱とか、黄疸が出ていないかだとか、そういうのも含めてすべてよく見てあげてくださいねと。

 その場に、なぜか父親は呼ばれない。産院だから気を使って男性を極力なかへ入れないようにしているといった事情もあるんでしょうけど、だったら父親にも説明する機会をつくってほしいと思いました。指導してもらった内容をあらためて夫に説明するのも二度手間だし、大事な一か月というなら、両親でちゃんとチェックしていったほうがいいに決まっているのにね。

 予防接種もそうですよ。赤ちゃんは接種すべき注射がいっぱいあって、しかも時期や打つ順番が決まっていて、組み合わせとか、複雑なことこの上ないんです。その説明も、やっぱり出産直後に母親だけにありました。これって最初が肝心で、「予防接種関連は、母親担当」みたいな感じになってしまいますよね。

 出産直後の朦朧とした頭であれをちゃんと覚えて、まちがいなくこなしていくって、すごくたいへんです。父親でこのスケジュールを把握している人、少ないと思います。実際に子どもを病院に連れてゆけるゆけないはべつとして、今どういう時期で何を注意しなくちゃいけないかを父親も大まかに把握しておいてくれたら、その姿勢だけで母親は心強いと思います。

あべちゃんは、とくになにも言葉を発さず、なんか、まっすぐに立ったまま、じーっと赤ちゃんをみているだけのようにみえるのだった。

本のなかでは、ともに妊娠・出産・育児に立ち向かうべき男性への目が、なかなか厳しい。川上未映子さんの夫である「あべちゃん」=作家の阿部和重さん=は、できるかぎりの協力を惜しまないものの、それでも、いっそいなくていいとまでいわれてしまったりする。

赤ちゃんが生まれた瞬間、阿部さんはただただ、立ちすくんでいた、気持ちはよく分かる、男は結局、それくらいしかできないんじゃないかという気もするのだけれど。

 何か深い意味のある「立ちすくみ」じゃなかったみたいで、単になんか、「小さい……」と思ってたらしいの(笑)。赤ちゃんがあまりにも小さくて、大丈夫なんだろうかと驚いていたみたい。前に友人の新生児を見せてもらったときは、もう少し大きくて、もっとちゃんと赤ちゃんっぽかったみたいで。

 男性だって分からないことだらけで辛いとは思います。でも、それは女性も同じで、妊娠と出産で体が疲労しきっているぶん、女性のほうが圧倒的に辛いです。

 育児を始めての1年は、言ってみれば、夫婦とは他人だと思い知る1年でした。

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コメント

azuazu1011 やっぱり好きやなぁ、 約3年前 replyretweetfavorite

acintosh "「じゃあわかったよ、おれがお金出すから、全部アウトソーシングにして、料理も好きなもの何でも買ってくるから、あとは寝ていなよ」という態度。" これな…。 約3年前 replyretweetfavorite

mayuppe  夫の人に読んでもらいたいわー 約3年前 replyretweetfavorite

orange_plus_me 川上未映子さんの文字もっと読みたいし東京のどこかでお会いしたい感ある。 約3年前 replyretweetfavorite