『春の庭』柴崎友香(文藝春秋)
あらすじ:世田谷にある取り壊し寸前の古いアパートに引っ越してきた主人公。あるとき、同じアパートに住む女が、塀を乗り越え、隣の家の敷地に侵入しようとしているのを目撃する。注意しようと呼び止めたところ、女から意外な動機を聞かされる……。
この1ページがすごい!
二階のベランダから女が頭を突き出し、なにかを見ている。ベランダの手すりに両手を置き、首を伸ばした姿勢を保っていた。
太郎は、窓を閉めようとした手を止めて見ていたが、女はちっとも動かない。女がかけている黒縁眼鏡に光が反射して視線の行方は正確にはわからないが、顔が向いているのはベランダの正面。ブロック塀の向こうにある、大家の家だ。
アパートは、上から見ると“」”の形になっている。太郎の部屋はその出っ張った部分の一階にある。太郎は中庭に面した小窓を閉めようとして、二階の端、太郎からいちばん遠い部屋のベランダにいる女の姿が、ちょうど目に入ったのだった。中庭、と言っても幅三メートルほどの中途半端な空間でコンクリートの隙間に雑草が生えているだけ、立ち入りも禁止である。アパートと大家の家の敷地を隔てるブロック塀には、春になって急激に蔦が茂った。塀のすぐ向こうにある楓と梅は手入れがされておらず、枝が塀を超えて伸びてきている。その木の奥に、板張りの相当に古い二階建てがある。いつも通り、人の気配はない。
女に視線を戻す。まったく同じ位置のままだ。
——『春の庭』3 - 4ページより
写真集の中に入りたい、入れない。だから……
—— 芥川賞、おめでとうございます! 4回目のノミネートでの受賞でしたね。
柴崎 デビューしたのが15年前なので、そう考えるとだいぶ時間がかかってしまいました。でも、そのぶん喜んでくれる方がたくさん増えたので、今回でよかったなあと思います。
—— アパートの一階に住んでいるサラリーマンの太郎が、ベランダから隣の家を覗いている女性を目撃したところから小説は始まります。その女性は、かつて隣の家の日常生活を撮影した写真集『春の庭』の大ファン。彼女はなんとか隣の家に入り込みたい、太郎もその作戦になぜだか巻き込まれていく……。
柴崎 この小説は私自身が、「写真集の家を見つけたい!」と思ったのが出発点だったんです。具体的に言うと、荒木経惟さんが妻の陽子さんを写した一連の写真集と藤代冥砂さんの『もうお家に帰ろう』。どちらも夫婦の日常を撮影した名作なんです。
どちらも写っているお家があるのは世田谷区。私もずっと世田谷区に住んでいるので、「近くにあるのか〜」なんて散歩しながら思っていたんです。実際に家を見つけたら中を見てみたい、入ってみたいと思うるだろうな、でも、入れないから気になるだろうなあって。
—— 現実では入れないから……小説の中で入ってみた、と。
柴崎 そうですね。ただ家に入りたいだけの話だと、どうしても世界が狭くなってしまってなかなかうまくいかなかったんです。その人を「あの人何やってるんだろう?」って見ている視点を作ることで世界が広がって、やっと動き出したという感じですね。
—— この小説のおもしろさを伝えるには、最初のシチュエーションを説明した後で、「とにかく一行一行読んでいってください」と言うしかない気がするんです。意外な展開が目白押しですよね。
柴崎 私自身も次に何が起こるか分からない状態で、前から順番に書いていったんです。「この人はこういう人なんだ」って書きながらだんだん分かってくるというか、「そんなことを考えるんだ」ってびっくりしながら。 それで、「どうやったら隣の家のお風呂場に入れるんだろう?」と登場人物と一緒に考えているうちに……あの“事件”が起きました(笑)。
—— 普段は消極的で面倒くさがりの太郎なのに……。
柴崎 急に湧いて来る使命感(笑)。
—— あのシーンの活劇感は、読みどころのひとつだと思います(笑)。
東京はリアルジャングルじゃないか!
—— 印象的なのは、太郎は人との出会いやちょっとした風景をスイッチに、過去のいろんなことを思い出していることです。これも書きながら自然とそうなっていった感じだったんですか?
柴崎 場所にまつわる記憶や思いを書きたい、という気持ちは最初からありました。
私自身が大阪から東京に引っ越してきて9年になるんですけど、普段は東京に馴染んで暮らしています。でも心の中には、それまで暮らしてきた大阪の街の風景だったり、言葉だったりを持ちながら生活しているんですよね。
自分がそうだということは、他の人にもきっとそうなんだろう。隣に住んでいる人も、それまでの時間だったり記憶だったりを持ちながら生きているんだろうなって。
—— なるほど。
柴崎 そういうものって外から見えないんだけれども、他の人の話を聞いてる時に「ああ、この人はそういうところで生きてきたんだな」「そんな過去や経験があったんだな」って、ふと感じる瞬間がありますよね。そういう瞬間も書きたかった。 いろんな記憶や文化を持った人たちが集まっている場所としての賃貸アパート、もっと大きくいえば東京の街というものを書きたいと思ったんです。
—— 東京に関して、太郎が発する印象的なセリフがあります。「東京って大自然ですよね」。
柴崎 あれは実感ですね。私は大阪の、工場に囲まれた埋立地の自然が少ないところに住んでいたんです。そういう所から来た人間にとっては、東京はほんとうに大自然です。皇居があり、赤坂御苑があり、新宿御苑があり……。東京って、巨樹の本数が日本一なんですよ。
—— そうなんですね!
柴崎 東京に引っ越してきた時、コンクリートジャングルだって聞いていたけれど、「リアルジャングルじゃないか!」って感動したんです。 この小説の中にもタヌキとかいろんな生き物が出てきますけど、私も散歩しながらいろんな生き物に遭遇しています。人って見ているようで見ていないというか、イメージとか先入観とか思い込みでものごとを見ているっていう部分がすごく大きくて。そこにあるものをそのまま見ることって、実はすごく難しいんですよ。
次回「なぜ自分は今、他の場所ではなくて、ここにいるんだろう?」、9/9更新予定
構成:吉田大助 撮影:片村文人
『春の庭』
柴崎友香(文藝春秋)