一故人

ノロドム・シアヌーク—「気まぐれ殿下」がカンボジアにもたらしたもの

カンボジアの現代史におけるキーパーソン、ノロドム・シアヌーク。激動の中で特異な人生を歩んだ人物の姿をライターの近藤正高さんが論じます。

亡命生活のなかカンボジア和平の青写真を描く

日本が国連平和維持活動(PKO)に初めて参加してから、2012年でちょうど20年が経った。1992年6月に成立したPKO協力法にもとづき、同年9月、PKO部隊の自衛隊第一陣がカンボジアに向けて出発している。

カンボジアでは1970年の右派クーデター以来、約20年にわたり内戦状態が続いていたが、1990年9月、国連安全保障理事会の提案する包括和平案に、対立する国内4派と各国が合意、翌91年10月にパリ和平協定が調印された。国連安保理の包括和平案にもとづき、国家の最高機関としてカンボジア最高国民評議会(SNC)が設置され、その議長にカンボジアの元国王であるノロドム・シアヌークが選出された(現地の正確な発音では「シハヌーク」だが、この記事では日本の多くのメディアで採用されている「シアヌーク」を用いることにする)。

包括和平案にはまた、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)を設立し、その監視下で停戦を実施、新憲法を制定するための議会選挙を行なうという内容が盛りこまれていた。自衛隊によるPKOも、明石康が代表を務めたUNTACの指示にしたがい実施された。

2012年10月15日にシアヌークの訃報と接して、ぼくがまず思い出したのは、パリ和平協定調印の翌月の1991年11月、それまで亡命生活を送っていた彼が13年ぶりに帰国したときの光景だ。このとき空港から首都プノンペン市内までパレードを行なったシアヌークが、沿道に集まった国民にオープンカーから手を合わせながらこたえる様子はいまでも強く記憶に残っている。長らく祖国を離れていたとはいえ、カンボジア国民にとって、彼はずっと尊敬の対象であり続けたのだ。

そもそもカンボジア和平のため、国連から派遣された武装部隊の監視のもと、停戦を実現、立法府選挙を行なうというプロセスは、じつはシアヌークが亡命中の1979年に上梓した著書『戦争…そして希望の年代記』(日本では『シアヌーク回想録 戦争…そして希望』というタイトルで1980年刊)のなかで、すでに青写真として描いていたものだった。果たして1993年5月にカンボジア初の自由選挙を経て制憲議会が開かれ、9月には新憲法が公布された。これにより同国は立憲君主制のカンボジア王国となり、シアヌークはふたたび国王に即位する。

アンコール・ワットやアンコール・トムを残したクメール王朝の流れを汲む血統にありながら、シアヌークは数奇な運命をたどった。その肩書も、90年の生涯のあいだに何度となく変わっている。

カンボジアがフランス統治下にあった1922年に生まれたシアヌークは、1941年、19歳の若さで国王に即位する。1945年には、ベトナムとラオスとともにカンボジアを支配下に収めた日本軍の指示により独立を宣言するも、第二次大戦で日本は敗北、フランスが宗主国に復帰する。それでも若き国王は、フランスを相手に、国内での対仏反乱を引き合いに出して脅したり、ときにはだますようにして譲歩を引き出し、1953年には真の独立を勝ち取った。王位を父親に譲り、「人民社会主義共同体(サンクム)」を結成、名実ともに政治の実権を握ったのは1955年のこと(以後、王位に返り咲くまで彼は「殿下」と呼ばれることが多かった)。1960年の父の死後は、新たに設けた国家元首となったものの、その10年後、フランス滞在中にクーデターが起き国を追われる。

ロン・ノル率いる新政権と戦うべく、シアヌークはそれまで敵対していたポル・ポトらと手を結び、亡命先の北京にて「カンプチア民族統一戦線」と「王国民族連合政府」を樹立、それぞれ議長と元首に就任する。もっともこれは名目上にすぎず、実際にロン・ノル政権を倒したのはポル・ポトの率いる軍であった。シアヌークは、プノンペン陥落後の1975年に帰国するも、翌年にポル・ポト派により新国家「民主カンプチア」が樹立されると、以後3年ものあいだ宮殿に幽閉されてしまう。「クメール・ルージュ(赤いクメール)」と呼ばれたポル・ポト派はこの間、処刑と強制労働により数百万人ともいわれる国民の命を奪った。

だが、1978年末にベトナムがカンボジアに侵攻を開始すると、翌79年にはポル・ポト派を離脱したヘン・サムリンによる親ベトナム政権が成立、ポル・ポト派は追放される。この混乱のなか国外に脱出したシアヌークは、再度の亡命中の1982年、カンボジア領内からのベトナム軍の撤退を求め、合従連衡の「反ベトナム三派連合政府」を発足させると大統領に就任している。ここまであげたシアヌークの肩書のめまぐるしい変遷は、激動のカンボジア現代史そのものといえるだろう。

「気まぐれ殿下」の生んだ喜悲劇

シアヌークの異名のひとつに「気まぐれ殿下」というのがある。一例をあげるなら、カンボジア和平に向け、国内各派や各国と交渉を進めるなかで、1987年5月に彼は三派連合政府の大統領の「休職」を宣言している。これはシアヌーク派が手を組む2派……共産主義のポル・ポト派と反共産主義のソン・サン派と「距離を少し置き」、ベトナムやヘン・サムリン政権と「対話」を始めるのが狙いだったという(冨山泰『カンボジア戦記』)。事実、その半年後には、ヘン・サムリン政権の首相であったフン・センとの会談が実現している。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes・note会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

ケイクス

この連載について

初回を読む
一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード