終戦直後に生まれ古希を迎えた稀代の司会者の半生と、 敗戦から70年が経過した日本。
双方を重ね合わせることで、 あらためて戦後ニッポンの歩みを 検証・考察した、新感覚現代史!
まったくあたらしいタモリ本! タモリとは「日本の戦後」そのものだった!
タモリと戦後ニッポン(講談社現代新書)
32歳の地図——芸人と文化人のはざまで 1
タモリのサングラス事始
サングラスのイメージが強い著名人は少なくない。ちょっと思い出すだけでも、宇崎竜童、所ジョージ、井上陽水、みうらじゅん、映画監督の黒澤明、山本晋也、写真家の荒木経惟などの名前があがる。ただし、宇崎も所もいまやサングラスで登場することはなくなり、山本カントクも以前より薄いサングラスでテレビに出てくることが目立つ。アラーキーこと荒木は近年、右目の視力を病気で失い、ここ最近は片側だけ黒レンズの特製の丸眼鏡がトレードマークとなっている。初期のタモリが「中洲産業大学のタモリ教授」に扮するときにかけていたのと同じ眼鏡だ。
上記のうち故人である黒澤明をのぞけば、いまだにサングラスがデフォルトなのは井上陽水とみうらじゅんだけだ。ただしこの2人もデビュー当時からサングラスのイメージが定着していたわけではない。伝説のマンガ誌『ガロ』でデビューし、『宝島』などでマンガを連載していた1980年代のみうらは、テクノカットに普通の眼鏡で雑誌などに登場していた。いまの長髪でサングラスの彼の姿からはほど遠い。陽水も、アンドレ・カンドレという芸名でリリースした最初のシングル「カンドレ・マンドレ」のジャケットではサングラス姿ではあるが、その後、井上陽水として再デビューしてからしばらくは裸眼で写ったポートレートのほうが目立つ。
井上陽水3枚目のシングル「夢の中へ」(1973年)
そんな彼らにくらべると、デビューまもない頃から現在にいたるまでサングラスをかけ続けてきたタモリは珍しい例といえる。いや、そのタモリとて、最初からサングラスだったわけではない。上京直後は普通の眼鏡、それがいつしか右目にアイパッチを着用してテレビ出演するようになる。タモリ本人に言わせれば、アイパッチは何かの番組に出演した際、スタッフから、どうも顔に特徴がないからとつけさせられたという。
サングラスもまた同様の理由からかけ始めたものだった。あるときテレビ番組のディレクターが、タモリの顔に特徴がなく、派手でも、ましていい顔でも何でもないのでつまらないと、たまたま持っていたサングラスを彼にかけさせたのだという(『広告批評』1981年6月号)。1977年3月前後の複数の雑誌記事には、すでにレイバンのサングラスをかけたタモリの姿が確認できる。ただし、一気にサングラスへと移行したわけではなく、しばらくはアイパッチと併用している。
アルバムリリースをきっかけに芸能事務所入り
1977年3月から6月にかけて放送されたキヤノンのカメラのCMでもアイパッチ姿だった。デビュー当初は髪を七三分けにしていたタモリも、このCMでは、オールバックで真ん中で分けている。1990年代初めまで彼のトレードマークとなる、あの髪型だ。これはCMの撮影時に、スタイリストが決めてくれたものだという。彼いわく、撮影が終わったあとそのままにして帰宅、翌朝も早かったので戻さずに仕事に行き、結局この髪型でずっと通すことになったのだとか(前掲書)。
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