セントラル・リーグのある球団に、投手へボールを返球できなくなってしまった捕手がいる。彼が出場した試合の映像を見たが、その姿は何ともいたたまれないものだった。キャッチャーにとって、もっとも基本的な動作のひとつであるピッチャーへの返球がままならなくなった22歳の青年は、あらぬ方向へボールを投げ返しては、観客から嘲笑と心ない野次を浴びていた。俗に「イップス」(スポーツ選手が、精神的な理由からプレイに支障をきたす)と呼ばれる症状である。高校野球、大学リーグと活躍し、ドラフト指名されてプロになるほどの実力がありながら、このキャッチャーはなぜか、まっすぐにボールを投げられないというやっかいな心理的スランプに陥っていたのだ。さぞや苦しいだろうと、青年の心境を想像するほかなかった。くだんの捕手は現役で、2014年の今期も二軍の試合に出場しているが、イップスを完全に脱したかどうかはわからない。
イップスで苦しむ選手を見るのはつらく、正視に耐えない。人としての尊厳を剥ぎ取られているように見えるためだ。野球のできない野球選手とは、いったい何者なのだろうか。青年は、野次の屈辱をこらえつつ必死でプレイをつづけているように見えた。しかし、投手の胸元へボールを投げ返せない捕手は、いずれ戦力外通告を受けることとなるはずだ。全力を尽くした結果、及ばなかったのであればあきらめもつくが、もし彼が野球界を去る理由が「ふとした拍子に、ボールをどうやって投げていたのか自分でも思いだせなくなってしまったため」であったとしたら、どうにもやりきれない。それまでの積み重ねが、すべてふいになってしまう。それが、練習や努力ではどうにもならず、たしかな解決方法も存在しないイップスが原因だったとしたら、これほど理不尽なことはないだろう。
『魔女の宅急便』(’89)は「ある日、とつぜん空を飛べなくなってしまった、13歳の魔女」を描いた物語である。本作に限らず、原因不明のスランプに襲われる主人公というテーマは、繰りかえし映画の題材になってきた。作品の構想に悩む映画監督を描いた『8 1/2』(’63)。脚本の執筆が進まない作家が、奇妙な事件に巻き込まれる『バートン・フィンク』(’91)。『スパイダーマン2』(’04)は、腕からクモの糸が出なくなったヒーローの物語であり、『さよなら、さよならハリウッド』(’02)には、映画の撮影途中にいきなり目が見えなくなってしまう監督が登場する。これらの作品において、主人公は身の上に起こった変化にとまどうばかりで、現実にはこれといってなす術がない場合がほとんどだ。彼らは、悪あがきのようにもがく以外、まるで何もできないのだ。
自己を客観的にとらえることはむずかしい。自分自身を見きわめようと目を凝らすほど、逆に焦点はぼやけ、自己イメージはあいまいになっていくほかない。『魔女の宅急便』において描かれる、見えざる自己の不可解さ。「なぜわたしは飛べなくなったのか」という困難な問いに、主人公の少女キキは向かい合わなくてはならない。劇中、苦境に立たされた少女をさらに翻弄するのは、めがねがトレードマークの陽気な少年、とんぼである。とんぼは本作におけるトリックスターであり、彼は最初から最後まで、自分が何をしているのか、自分の言動が周囲にどういう影響を与えているのかを理解しないまま、いたずらに混乱を呼び起こし、状況をややこしくかきまわしてしまう。彼の言動は不必要にキキを挑発し、動揺させ、スランプへと陥れる。しかしとんぼはつねに無自覚であり、騒動の中心にいながら、何も見えていないのだ。天性の誘惑者という言い方もできるが、その無意識過剰には腹立たしさすら覚えるほどだ。
とんぼは、ほうきに乗ってやってきたキキに対して、町でいちばん最初に興味を抱いた少年ではあるが、それは同時に、風変わりな黒い服を着た魔女と友だちになってみたいというものめずらしさ、キキの属性に対するステレオタイプな関心にすぎないのである。とんぼはそもそも、キキの内面にあまり興味がない。だいいち、「魔女子(まじょこ)さん」という呼び名にはデリカシーが欠けており、内面を備えたひとりの個人としてキキを尊重する態度とはかけ離れたものだ。
とんぼはスマートな社交術を備えており、それなりの優しさはあるものの、八方美人なうえに移り気で、誰に対しても調子がよく、いい顔ばかりする。そうした軽薄さがキキの癪にさわり、場合によっては彼女をひどく怒らせてしまうのだが、とんぼ本人はなぜキキが怒っているのかもあまりよくわかっていない。彼はこうした際に、図々しいまでの無頓着さを発揮することとなる。それでも両者はしだいに接近し、相互理解の入口へと到達するのだが、とんぼが誘ったパーティーがきっかけとなって、キキの絶望的なスランプが始まってしまうのだから始末に負えない(キキは仕事が長引いたせいでパーティーに参加できず、代わりに風邪で寝込んでしまうが、高熱がおさまったとき、彼女の魔法は弱まっている)。物語後半、危機的状況に陥ったとんぼを助けることで、キキはひとまずスランプを脱するが、クライマックスである飛行船の場面においても、結果的にキキは、とんぼの無意識が引き起こすドタバタにつきあわされていることとなる。
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