SMAPと浜崎あゆみに共通する「取り扱いにくさ」
のっけから読点や助詞が続く読みにくい文章で恐縮だが、今現在の浜崎あゆみとSMAPに共通点があるとすれば、長丁場の歌番組の最後の最後で必ず「満を持して登場」するけれど、それが本当に満を持しているのか疑わしい、と周りの皆が思っている、という点だ。
今、この「満を持して登場」を文句無しで背負えるのが嵐であり、あるいはB’zやサザンといった滅多に出てこない大物なのだが、浜崎やSMAPというのは「旬」と「大物」の間でさまよいつつも明らかに「大物」寄りでさまよっているから、取り扱いがとことん難しくなる。まだしも「旬」寄りに認識されている人ならば少々大物感が急造っぽくても気にならないものなのだが、どう転がっても明らかに大物寄りなものだから難しい。誰にだってやってくるキャリアの下り坂を感知した際の措置として、あまりメディアに出ずに希少性を高めることで大物感の醸成を早める、という技がある。しかし双方共にそれをせずに何かとメディアに出てくるものだから、ファン以外の人たちにしてみれば常に供給過多となり、大変恐縮ながらもう少しお控えなさるべきでは、という助言をしたくもなる。事実、この双方には「いつまでやるの?」という辛めの突っ込みがあちこちから放たれ続けているわけである。
ひとつだけの花が咲いているようには到底見えない
マンガ家の久保ミツロウがSMAPについて、昔は「誰がいいか」を議論したけど、今は「誰に共感できるか」を議論してしまうと言っていて、なるほどSMAPの存在意義はこうして保たれているのかと気付かされた。忙しすぎて滅多に全員揃うことがなかった全盛期のころ、彼らは全員が揃うことを「SMAPする」と呼んでいた。嵐に漂う友達感覚はどこか高校生っぽいし、TOKIOの同僚感覚は「同じ釜の飯を食う」ことを大切にしてきた昭和の中小企業っぽいのだけれど、片やSMAPは、嵐やTOKIOのように仲睦まじく全員が揃っているのを常態とせずに、方々から集うこと自体をひとつの特別な出来事として見せてきた気がする。『SMAP×SMAP』は長年続いているが、(基本的には大物)ゲストを相手にするという演出上、あまりグループとしてのコミュニティ感を漂わせはしない。
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